魯迅 著『狂人日記』評Ⅲ
* 狂人の目
お父さん、お父さん!
あれが見えないの?
暗がりにいる魔王の娘たちが!
息子よ、確かに見えるよ
あれは灰色の古い柳だ
これは、シューベルトが作曲した『魔王』の一節である。
この目からもたらされる感覚の相異!
これに私は魅入られる。そこには、唯物と唯心の対立があり、常人と狂人の対立がある。
『狂人日記』の〈僕〉は、いわば『魔王』の少年である。かれには見えるのだ。食人種としての村人たちが。無論、唯物の視点に立てば、村人たちが人食いをしていないことぐらい、たやすく判る。しかし、かといって、かれらは本当に食べていないわけではない。個々が群となり、ひとつの共同体となったとき、それは無自覚に孤立した個を食すのである。それを〈僕〉は直覚した。取りこみ、同化させようとする集団の、まるで獲物を狩る山猫のような急襲の予感に、かれは村で唯一気づいた。そのとき、〈僕〉は村人たちをみていない。その裏に潜む〈集団の本質〉を目の当たりにしていた。ゆえに、すでに無自覚に食べられてしまっていた大兄を〈僕〉は救い出そうと説得を試みたのである。しかし、肉食獣に貪り食われてしまった仲間を救おうという狂った考えだけが先行する草食獣に何ができよう。かれもまた「すでに快復して某地に行き任官待ちなり」。言葉ばかりの抵抗が関の山であった。
おかげで、この後も世界各国で犠牲者は増えつづけるばかりである。
まざまざと食い殺されたものに、ガルシア・マルケスの『予告された殺人の記録』があり、抵抗するも同じように屈してしまったものに、安部公房の『砂の女』、『燃えつきた地図』、トマス・ピンチョンの『インヒアレント・ヴァイス』がある。
人食いをしたことのない子供は、まだいるだろうか?
子供を救って……
この今際の〈僕〉の言葉は、残響でしかない。