夢の島=吸殻の山

本内容は「せいじん」を対象としています。

江戸川乱歩 著『人間椅子』評

 f:id:nekonotsume:20210606144928j:plain
* 地蜘蛛

 

 蜘蛛には大きく、樹上棲、地表棲、地中棲があり、それぞれによって、模様も見た目もちがえば、巣をつくるだのつくらないだのがある。
 小説の主人公たちもたいていは、この蜘蛛の大きなくくりに当てこむことができるが、『人間椅子』の手紙の主はなかでも地中棲の類である。辛抱強く、巣に身を潜め、獲物があると思いきや、巣から這い出し、目的のものをかすめ取る。ここにはおもしろくも、『ジキルとハイド』の二面性が宿っていることに気付かれる方もいるだろう。巣内では湧き出る欲求を堪え、巣外に身を躍らせるやいなや欲求を爆発させる。ジキルは薬を飲むことでハイドへの変貌を可能にしたが、この手紙の主の場合は椅子である。
ジキルがハイドに変貌していくうち、かれの兇暴性は次第に増幅していくが、『人間椅子』の手紙の主も例にもれず、欲求の度合を深めていった。まさしく、はじめは生活そのものを豊かにするため金銭が獲物であったが、より欲求に近い獲物に切り替えた。その欲求とは、周知のとおり、性欲であり、獲物は女である。そして、その欲求はいよいよ昂まり、ひとつの大きな結末——手紙を出すに至った。
ながれは、ジキルとそう変わらない。しかし、必ずしも、ジキルと同一とはいえまい。というのも、かれはジキルほど分裂していない。
見た目も変わらなければ、生活もべつではない。ひとつなぎになっており、欲求の発露は生活の延長線上でしかないのだ。だからこそ、かれは直接、女を襲うことはなかった。この煮え切らなさは、いかにも西欧文化導入の際、和洋折衷を図った日本らしい。これを戦後糾弾した批評家は幾人かいるが、かならずしも欠陥とはいうふうには思えない。煮え切らなかったからこそ、中途半端ではあれ、非常に稀な、不連続性を有する欲求と連続性を有する生活が混在することができたのだ。その後も、似たような傾向をもつ小説が国内に生じたとはいえ、同じ地蜘蛛でも、ダンボール箱をじぶんの住まいとし、世間からは隔絶した環境で世間を眺める、安部公房の『箱男』は生活の比重が大きく、好意を寄せる女のベッドの下に身を潜め、恍惚とする、大石圭の『アンダー・ユア・ベッド』は欲求の比重が大きい。いずれも、混在という点においては『人間椅子』に劣る。
この煮え切らないがゆえの美点は力強く、日本だけにとどまらず、西欧の土壌においても美点でありうる。ジキルは薬を服用するたび、ハイドへと変わった。やがて、ハイドがジキルにとって代わり、薬なしではジキルに戻れなくなり、あげくはハイドのまま自殺した。『人間椅子』の手紙の主は? かれは自ら「私は生れつき、世にも醜い容貌の持ち主」と明言しているとおり、そもそもはじめから見た目はハイドであった。そして、かれは驚くべきことに、正体を明かしてもなお、死ななかった。かれはどこまでいっても、ジキルよりも、徹底した地中棲の蜘蛛であったようだ。かれはさいご、手紙を読んだ〈奥様〉を安心させるため、巧みに地中棲の蜘蛛特有のカモフラージュを施している。
重要なのは、この後、かれは〈奥様〉を捕食しえたかどうかである。