ツメノめ

本内容は「せいじん」を対象とし、一部過激な思想、表現を用いています。

ミハイル・ブルガーコフ 著『悪魔物語』評Ⅱ

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* "The World is Yours"(世界はあなたのもの)

 
 市民相談室をもとめて駆けずり回るコロトコフは、緑色の建物のなかでヘンリエッタ・ポターポヴナ・ペルシムファンスという女に出会う。かのじょは物語に直接関わる重要な人物とはいい難く、ちょっとした端役であるが、それでも読者へ意味深長な言葉を一言置いていく。
「ああ、あの恐ろしい二人のカリソネル」
 これにより、カリソネルはふたり"いる"ことが確定する。
 同一人物がふたり。とっさにドッペルゲンガーではないかと憶測を飛ばしたくもなるが、そうは問屋が卸しそうもなく、『二重人格』の新ゴリャートキンや『ウィリアム・ウィルソン』のウィリアム・ウィルソンのような生易しいものではない。カリソネルは、新ゴリャートキンやウィリアム・ウィルソンとちがって、さまざまに変身するのである。そのため、ページをめくるごとに、はたしてカリソネルは本当にふたりなのかが淡くなっていく。
 カリソネルの諸々を列挙してみよう。
 いちばんはじめに登場するカリソネルはこのように描写されている。
《コロトコフのせいぜい腰のあたりまでしかない小柄な男であった。》
《男の肩幅ときたら、背丈の低さを補うにはあまりあるほどであった。》
《四角ばった胴体が蟹股の両足に支えられ、しかも左足は不自由そうに引きずられていた。》
《なによりも人目を惹いていたのは頭である。その頭は、それこそ巨大な卵の見本さながらで、鋭く尖った先端が前に倒れるようにして首の上に水平にのっかっていた。また、卵のようにつるつるに禿げあがり、強烈な光を放っていたので、頭頂部には暗闇のなかでも電球が消えることなく輝いているかのようであった。》
《顔には、ひげの剃りあとが青々とし、芥子粒みたいにきわめて小さな緑色の目は、落ちくぼんだ眼窩の奥に収まっていた。》
《厚手のウールのグレーの詰襟軍服のボタンをかけずにいたので、ウクライナ風の刺繡入りのシャツが覗いて見え、同じ厚手のウールのズボンをはき、アレクサンドル一世時代の驃騎兵の用いていた切込みのある短めのブーツを履いていた。》
《その声は金盥をたたいたときの音にそっくりで、異なっているのは、その声を聞いたら、一言ごとに、だれもが有刺鉄線にでも触れたような感じを背骨あたりに覚えることだった。》
 そして、二人目と目されるカリソネルは一人目とは別の特徴を備えて物語に登壇している。
《グレーの軍服も鳥打帽も、書類鞄も、干葡萄のような目も、なにからなにまで、コロトコフには見覚えのあるものばかりだった。それはカリソネルにちがいなかったのだが、そのカリソネルは、胸のあたりまで届きそうなアッシリア風の縮れた長い顎ひげを伸ばしている。》
 髭の有無で、コロトコフとヘンリエッタはカリソネルを区別したらしく、人数をふたりと断じたが、しかし、かれら以外にもカリソネルは登場しており、《光沢をおび、ウェーブのかかった顎ひげが胸をおおって》いるカリソネルや、「クー、クラックス、クラーン!」と叫ぶカッコウ姿のカリソネル、《出生証明書》のついた白い雄鶏姿のカリソネル、さらには黒猫のカリソネルもいるのだ。こうなると、もはやカリソネルはふたりであると馬鹿正直に捉えてしまっては混乱するのが必至である。かといって、かりにコロトコフやヘンリエッタの共通認識を信じないでいてもそれはそれで何の解決にもならない。なにせ、カリソネルはひとりなのか、ふたり以上の複数なのか、けっきょくのところ、明かされることはなく、あげくはカリソネルとは何であるかすら謎のまま、われらが主人公のコロトコフは身投げしてしまうからだ。しかし、物語の終幕とともに、カリソネルの正体を断念するのは早い。芥川龍之介の『歯車』を突きだせば、ぼやけたカリソネル――ないしは、社会諷刺に力を傾けていたがゆえに思わず抱えてしまったコロトコフ≒ブルガーコフの欠陥――は容易につまめる。それというのも、『悪魔物語』と『歯車』は構造がよく似ている。不穏で、いささか支離滅裂で、偏執的(コロトコフの場合、「マッチ」、「カリソネル」、「ビリヤード」。『歯車』の〈僕〉の場合、「火事」、「ブラック・アンド・ホワイト」、「巻煙草」、「モオル」)。ちがいは、『悪魔物語』が神の視点で書かれているのに対し、『歯車』は主人公の視点で書かれているということぐらいである。むろん、視点のちがいにより、前者は喜劇となっており、後者は悲劇となっている。
 この悲劇をもたらす主人公の視点を『悪魔物語』に導入することで引き出される革新的思念は「ヘンリエッタ"だけ"を信じるな」である。すなわち、他者が認知したからといって、かならずしもそれが事実とはかぎらない――『歯車』において〈僕〉は、いともたやすく語ってのける。《第二の僕、――独逸人のいわゆる Doppelgeanger は仕合せにも僕自身見えたことはなかった。しかし亜米利加の映画俳優になったK君の夫人は第二の僕を帝劇の廊下に見かけていた。(僕は突然K君の夫人に「せんだってはつい御挨拶もしませんで」と言われ、当惑したことを覚えている。)それからもう故人になったある隻脚の翻訳家もやはり銀座のある煙草屋に第二の僕を見かけていた。》――、あくまで他者のもち出した、他愛ない話(他人の空似をドッペルゲンガーであると錯覚させる話)であり、それを信じる信じないは、自らの思いこみによるのだ。
 コロトコフはカリソネルがふたりと思いこんだ。ゆえに、ヘンリエッタの発言は採用された。さらにいってしまえば、いなくても何ら支障をきたさないはずのヘンリエッタを創造した。じっさい、部屋を飛びだし、ふたたび戻ってみると、《ドアを勢いよく開けて、ホールに駈けこんだコロトコフは、そこががらんとして人気のないことを悟った。タイプライターが言葉もなく白い歯を見せて笑っていただけである》。ヘンリエッタは存在しなかったのだ。
 主観客観は関係ない。思いこみが世界をつくる。個々の思いこみが個々の世界をつくり、それぞれの眼下に投影される。
  ここに行き着くと、濃霧のように形は見えれど掴みどころのなかったカリソネルがあっさりと実体となり、露となる。明言するまでもない。あらためて、一人目のカリソネルの特徴に目を通してみてほしい。そして、主人公の「コロトコフ」という名をみてほしい。これはロシア語で「短い、背の低い」を意味する。

 ところで、蛇足であることは重々承知だが、『悪魔物語』と『歯車』、どちらが思いこみの面で優れているのかもついでに明らかにしておこう。邪推するに、『歯車』である。なぜというに、『悪魔物語』の結末に『歯車』の非常に重要な台詞を当てこむと、まるでトドメのようにしっくりと来るのだ。その台詞というのは、「Le diable est mort」。フランス語である。作中においては一切、日本語に訳されていない。
 訳すと、こうなる。「悪魔は死んだ」