まいこときしん

本内容は「せいじん」を対象とし、一部過激な思想、表現を用いています。

ウォルフガング・ペーターゼン 監督『U・ボート』評Ⅲ

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* 機械仕掛けのレヴィアタン

 
 近頃は往々にして主客顛倒している。
 街中、どこを向いても、スマートフォン
 右を向いても左を向いても、かならずひとりはスマートフォンに眼を落としており、電車内にいたってはなお、その傾向が顕著である。寝ているか、スマートフォンを操作しているか、そのどちらかを占める者が大半である。
 これでは、人間が機械を操作しているのか、はたまた、機械が人間を操作しているのか、わかったものではない。
 とはいえ、人間が機械を操作しえているにしろ、機械が人間を操作してしまっているにしろ、どうでもよいではないか。それを深刻な問題として取り上げる者もいるが、そこまで重要なことではない。
 じっさい、『U・ボート』の人間と機械の関係を目の当たりにすると、それが問題にすらならない些末な事柄であるのがよくわかる。
 平常時、行先を導くのは人間たちであり、戦闘時、矢面に立つのは潜水艦である。互いが助け合って生存している。とくにそれを感じさせるのは、ジブラルタル海峡での沈没である。負傷した巨躯に対して、内側から治療を試みようとするあらゆる体細胞のように乗務員たちがあわただしく、「お互い」の救命にむけて必死に動いている。
 すっかり人間と機械が溶け合って融合して、有機体と無機物の特質を備えたあらたな生命体――人工鯨となってしまっている。いや、鯨というよりも、レヴィアタンのほうがふさわしいかもしれない。鎧のような体表、冷厳にして攻撃的な性格。鼻から蒸気、口から魚雷。獲物を絶えず追い求め、襲うは人間の乗る船ーー。
 実在する動物を超えて、立派な空想上の生物が、人間と機械とが手を取り合ったために顕現した。じつにファンタジックかつロマンチックな映画ではないか。
 だからこの映画の結末を、戦争のもつ無常観などというふうに、ありきたりに考えるべきではない。
 瀕死の状態で故郷に戻り、レヴィアタンは吐血して死んだ。そう捉えるべきだ。
 仮にレヴィアタンが生き永らえていたらどのようになっていたか。
 答えはある。『U・ボート』がつくられる約五十年前に推理した者が日本にいる。
 かれ――そう、稲垣足穂は『われらの神仙主義』で時空間を超え、このように語った。
 《今日のように生命を重んじてしかも機械も受け入れなければならぬといたずらに思いわずらっているより、生命をもって機械運動のなかへほうりこんでしまったら……すでに鬼と鉄棒の一致したこの上ない例であるこんな人間タンクのまえに、むかうところどんな難関も突破され、かの風に御して冷然とよかった列子も何のその、長さ数千里のつばさをひろげつむじ風をたたいて九万里の高さから悠々と南冥に移った荘子大鵬も、またあえて不可能ではない新天地をひらくことはうたがいない。》
 機械にたいして人間は対立している場合ではない。人間と機械が手を取り合った未来は明るい。
 われわれはもっとのめりこむべきだ。機械に――スマートフォンに!