ウォルフガング・ペーターゼン 監督『U・ボート』評Ⅱ
* 観る音楽
乗員たちの生活には濃縮された単調性がある。
遊びの幅に制限があるため、目新しさがすぐに失せてしまうし、日々行われることといえば、欲求である食事と睡眠、仕事である見張りと整備だけである。
いうなれば、艦内は一定のリズムの反復で構成されている。
乗員ひとりひとりが、楽器であり、演奏者なのである。
かれらは海の奥深くで、音を奏でる。読経やケチャの類に見受けられるような音色を――。それらは、艦内に反響する。音は増幅する。感覚の混乱が生じ、観客はトランス状態に陥る。楽器兼演奏者たちも自覚なくトランス状態に埋もれる。かれらは変化があると思いこんでいる。ガムランでいうところのオンバに惑わされているのだ。
この停滞と怠惰が同居したような陶酔を打ち破り、われわれ――観客と乗員たち(あるいは楽器兼演奏者たち)――が有意識体であることをとつぜん思い出させるのは、皮肉にも戦闘である。
戦闘は良い。気晴らしであり、過激な遊びだ。戦闘には、華々しい多様性がある。
暴力的なノイズ、突発的なアドリブ、音楽理論に則った模範的旋律、予定調和の進行。
一定のリズムから逸脱した、意識的無意識的音色が混沌と重なり、溶け、ぶつかり、反発する。
そこにはかなしいことに、悲劇がない。停滞や怠惰もない。あるのは、一瞬間ごとに刻まれる、めまぐるしい変化のみである。
変化の渦に呑まれている演奏者たちの相貌は奇妙にも生き生きとしている。変化を貪り、夢中になっている。観客も然り。
つぎからつぎへと押し寄せる無軌道にして厳粛な音の熱波は、急激にのぼり詰め、やがて宿命的に巻き起こるオルガスムスのような過程をたどる。刹那的であり、持続はない。目的に達した途端――たとえ物足りなくとも――それは突如として終わりを告げるのだ。そして、ふたたび沈下し、一定のリズムへと戻っていく。
著しい二極化のなかで演奏者たちはひたすら翻弄される。弛緩の隙があたえられない緊迫した長時間演奏。
気の狂わない演奏者が現われないはずもなく、ヨハンというひとりの演奏者は、途中パニックを起こした。演奏を中断し、大海原のど真ん中で滑稽にも艦から降りようとした。
指揮者はそれを笑って済まさなかった。かれはピストルをもち出して、ヨハンを処刑しようとした。一糸乱れぬ演奏をするためならば、演奏者のひとりを撃ち殺すのも辞さないという面構えをしていた。
指揮者がそこまで演奏にこだわるのも無理はない。
かれらのおかげで、潜水艦は歌えているのだ。
ただ、気になることがある。潜水艦の歌っている曲のジャンルは何であろう?