まいこときしん

本内容は「せいじん」を対象とし、一部過激な思想、表現を用いています。

ミハイル・ブルガーコフ 著『悪魔物語』評Ⅰ

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* "Devil"

 

 邦題は『悪魔物語』。
 原題は"Дьяволиада"となっており、英訳すると、"The Devil"である。直訳するのであれば、題は「物語」という単語を排した『悪魔』が正しいのであろうか。しかし、この悪魔という単語が厄介だ。"Devil"はテーゼで示すところのアンチテーゼといった意味合いをもっている。つまり、題で使われている〈悪魔〉は、善の対となる悪を表しており、天使と敵対関係にある存在という意味での〈悪魔〉なのである。
 さて、その悪の化身と喩えてもよいような〈悪魔〉が何なのか、何が〈悪魔〉なのか。
 作中においては、とくにこれといって直接〈悪魔〉を具体的に示していないため、正体を暴くための推理しなければならない。そこで手掛かりとなるのは副題である。副題はこのように記されている。
《分身が一人の事務員を破滅させた物語》
 額縁どおりに受け取るのであれば、いわずもがな、分身が〈悪魔〉になりそうではある。なにせ、一事務員を破滅させているのだから!
 文脈から読み取らずとも、単語から考察し、「分身」という曖昧かつ抽象じみた単語と、「事務員」という実在味を帯びた具体的な単語を秤にかけて、非在性の要素が多分にある〈悪魔〉はどちらなのかを考えてみても、やはり分身が〈悪魔〉となりそうである。
 物語そのものを追ってみても、副題に違わず、しがない善良な事務員が、分身の起こす悪夢のような出来事に遭遇し、みるも無残に身を滅ぼしていく。どう考えても分身と〈悪魔〉がひと繋ぎになる構図である。
 ということは、分身が〈悪魔〉であると導き出してしまってよいのだろうか。よいのかもしれない。決定的なことに、作者であるブルガーコフもどうやらその意図をもっていそうなのだ。分身とひと口に副題では表現しているが、それは作中において次から次へとあらゆる場所に出没するカリソネルだけを指しているわけではないらしいところからそれは察せられる。
 ブルガーコフがこの『悪魔物語』を執筆していた当時、ロシアは革命後の動乱期であった。あわただしく変容し、融通のきかない息苦しい社会主義国家が眼前には広がっていたのだろう。その社会を身近に、戯画的に、卑俗的に、高圧的に、体感できるようにするため、ブルガーコフは、社会の分身――カリソネルをつくり出した。そして、当のカリソネルも分身する。さまざまな角度によって、めまぐるしく相貌を一変させる当時の社会を忠実に再現したのだろう。分身には社会の暗喩も込められていた。
 そこから導き出されるのは、善良な民を破滅へ導こうとする社会。すなわち、その社会、社会の偶像であるカリソネル、カリソネルの分身たちが、まさしく〈悪魔〉。
 だが、その社会を生み出したのは紛れもなく民である。多くの民が希望し、成就したものが果たして〈悪魔〉となりうるのか。さらには、幾重にも分身して八面六臂の活躍で社会に貢献するカリソネルが〈悪魔〉となりうるのか。
 ここで反転する。テーゼがアンチテーゼに、アンチテーゼがテーゼになる。
 むしろ、多くの民が集い、そこで誕生した新たな秩序を破壊せんとする者、一人の事務員こと主人公のコロトコフこそ〈悪魔〉ではなかろうか。
 心優しく、善人そうな面をしているが、その実、仕事には遅刻ばかりで、指示は読み間違える、女子従業員にズボン下を履かせる妄想を抱いては恍惚とし、上司には楯突き、ストーカーのように追い回しては襲いかかる、いくつかの職場を荒らし、あげくは役人を殴り、大事件を起こしている。
 本当の悪魔というのは大概、こんな連中ばかりだ。表では柔和な、あるいは温和な様子をみせ、なんであれば、公然と被害者面までしてみせるが、裏ではたいてい、とんでもないことをしでかしている。メフィストフェレスオーバーロードなんかが良い例だ。……おっと、失礼。かれらは悪魔は悪魔でも、"Demon"ではあれ、"Devil"ではなかった。かれらは私利私欲であり、多少のイタズラは働くものの、主人には従順であった。"Devil"となると、『マンク』の放蕩者がそうであろうか。なにも文学作品にこだわる必要はあるまい。小難しく喩えず、もっと単純明快にいこう。マルセイユ版タロットカードの大アルカナ十五番のカードをみればいいのだ。百聞は一見に如かず。一目瞭然である。ヘンテコな被り物をした、豚耳と尾のある全裸の男女を、家畜のように従えているにもかかわらず、描かれている"Devil"の顔はなんとマヌケだろう!
 滑稽な様で惑わし、"Demon"よりも悪質なワガママを貫き、他者に危害を加えつづけるコロトコフはそれこそ、分身は分身でも、ドストエフスキーの『分身』に登場する旧ゴリャートキンのように精神病院へでもぶちこみ、幽閉してしまうのがふさわしいというものだろう。しかし、ブルガーコフは容赦がない。それよりもむごい結末をコロトコフに用意した。
 じつはこの結末が、ブルガーコフの真意を語っている。
 社会を徹底的にかき回し、破壊せんとした〈悪魔〉の抹殺。
 立派な社会主義国家万歳の様相を呈しているではないか。
 にもかかわらず、当時の文芸誌『ズヴェズダ』二十四年三月号の批評では「ソヴェト官僚主義にたいする諷刺」と捉えられたばかりか、「革命後のロシア社会にたいする辛辣な諷刺がこめられていた」との的外れな理由で発禁処分まで受けることとなった。
 皮肉な話ではないか。
 現実世界では、副題のとおりである。