夢の島=吸殻の山

本内容は「せいじん」を対象としています。

金石範 著『往生異聞』評Ⅲ

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 * 嘘つきのパラドックス

 

《本家の中国以上に金縛り式に確立された儒教倫理は、われわれの血の一滴に至るまで沁み込んでいるのである。》
「考えたら、かわいそうな男だ。おそらくチョンガㇰ(未婚男子)のまま家庭の味も知らないで死んだんだろう」
朝鮮人は酒を飲むと政治論議が好きで、日本人は酔うとすぐ四畳半式の色話をするというのだが、この客たちはどうやら"硬派"のようだ。》
 これらの引用文はいずれも孔兄弟の独白や台詞である。
 孔兄弟は本当に在日朝鮮人なのだろうか?
 かれらは朝鮮人として完成され過ぎている。アイデンティティの塊だ。アイデンティティはなにも国家だけに依るものではない。この場合、エスニシティ――宗教観、民族観――の側面が強く、これでもかとアイデンティティを泥臭く表徴している。
 アイデンティティに懊悩するなど、軟弱な精神をもつ者がすることだ、といわんばかりに孔兄弟を通して作者である金石範が語りかけてくるようだ。李恢成と国籍について揉めただけの強固さがある。この強固さは文学の分類そのものを揺るがすようで、日本人を遠ざけ、朝鮮人の胸に訴えかけるような調子はまるで在日朝鮮人文学というよりも、もはや日本語を駆使しただけの朝鮮人文学の様相を呈してしまっている。そこにある種の金石範の文学にたいする覚悟のあらわれ、在日という不安定かつ脆弱な地盤を粉砕せんとする気概を感じないでもない。しかし、他に多く見受けられる在日朝鮮人文学による懊悩は、金石範が捉えているほど軟弱ではない。懊悩はもがきであり、もがきはやがてアイデンティティの破壊へとつながる。
 いまだ在日朝鮮人文学者たちは精神的成長が未熟であるためか、それとも発育不全のためか、破壊へ至るまえに自家中毒を起こし、七転八倒してしまっている。それが見苦しく、ふと軽侮の念が湧いて、豪快な腕力をふるわずにはいられなかったのだろう。だが、金石範のそれは、あきらかに偏っている。偏っているからこそ、「日本人は酔うとすぐ四畳半の色話をする」などと口走ることができ、そこに含まれているであろう哲学(政治は〈今〉、エロは〈普遍〉。プラトンの姿勢を見習いたまえ。サドでもバタイユでもいい)を読み取れないばかりか、打開策(アイデンティティの別視点導入)も誤った。
 田辺繁治のように、アイデンティティをやわらかく、抽象的に、認識してほしいところだ。『生き方の人類学』にて田辺はミシェル・フーコーの考えをもとに、こう語っている。
《少し立ちどまって考えればわかることだが、さまざまなアイデンティティを感じ、語ることのもっとも基底にあるのは、いうまでもなく他者の存在である。人間の同一性の考え方は他者を想定し、それを内在化することなしには成立しえないのである。アイデンティティという滑らかな表層を掘り崩していけば、一貫した同一性どころか、欲望と矛盾にみちた権力関係の泥沼に行きあたるはずである。霊媒カルトとエイズ自助グループの例が示すように、人びとは欲望と苦悩のなかで他者と権力関係のゲームを演じながら、より良く生きるためのアイデンティティを求めているのである。》
 アイデンティティは定形になりえない。つねに不定形である。そして、それは差別の連鎖を生む。
 金石範の手法は何の解決策にもなっていない。
 朝鮮人であることに甘んじず、まだ懊悩するほうがマシである。