夢の島=吸殻の山

本内容は「せいじん」を対象としています。

金石範 著『往生異聞』評Ⅱ

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* 身投げしたあいまい

 

 孔相伍は黄太寿が死んだとの報せを受ける。しかし、本当に死んだのかどうかは定かではない。
 定かでないものの、主観的憶測によって、伝言ゲームのような形で耳に届いた噂は固められ、冒頭、相伍は兄の相九とともに奇妙な黄太寿の死の痕跡さがしをはじめる。
 ありもしない黄太寿の亡骸をもとめてドブをみて回り、やがて行きつけの飲み屋に腰を落ち着けることとなり、煙草を喫い、酒を呑み、料理を食し、弔う――
 この孔相伍が体験した旅は、オカルトチックな旅といえる。実在の仮面をまとった不在を現実世界において手にしようという、なんとも摩訶不思議な探索なのだ。
 これは――ことばにすることのほどでもないが――わざと作者によって計画されたものであろう。
 物語の主役は黄太寿なのである。かれから物語をはじめてもよかった。むしろ、黄太寿をはじめから中心に据え、練ることで、物語の強度は増した。にもかかわらず、そうしなかった。
 おそらく、孔相伍を前篇と後篇の主役に立たせることで、黄太寿を国の狭間に位置させるだけでなく、生死においても狭間に位置させたかったのだろう。在日朝鮮人の出自探求を逆手にとった作者の試みであるように考えられる。
 在日朝鮮人文学――厳密に語るのであれば在日二世文学は、常々、〈生まれ〉について懊悩する主人公たちが多い。
 生があって国がある。本来であれば、生→国である。しかし、在日朝鮮人文学はどうも短絡的ないしは稚拙的である。生即国という認識のもと、物語を構築している。そんなわけがない。思春期を迎えるまではそんなもの疑問に思うわけがない。ましてや、異質であると直覚するわけがない。仮に、いじめられたというようなネガティヴな事象が発生したとして、真の意味において「国のせい」あるいは「アイデンティティの不在のせい」(このことばを使うのは個人的に不快である)と思考するはずもない。じぶんの容姿や家庭に原因をもとめるのがあたり前であり、またそれは「在日ならでは」なわけがなく、都会から田舎(あるいはその逆も然り)へ越した児童にもみられる。ようするに、〈特異〉ではないのだ。国家というマクロな規模に圧倒され、目先のこともみえずに差別と逆差別の渦に呑まれ、その呑まれることが当然であるというふうに錯覚しているに過ぎないのである。
 ともかく、この在日二世文学特有の偏狭な原理に則って捉えるのであれば、その逆行の形(死即国)の試みから、生死不詳の幻想性を付加させるために、孔相伍は存在した。
 さて、試みは成功したか。失敗である。この場合の成功とは、あいまいさである。あいまいたりえなかったのだ。痕跡さがしのとき、黄太寿は生きていた!
 ものごとには両義性が絶えず備わっている。生があいまいでないということは、死もあいまいでないということであり、それはつまり、生と死においても宙ぶらりんでなかったということであり、それがあるために、かえって孔相伍の存在が不要に映り、後篇にいたっては見る影もない。
 孔相伍の惨めさよ。
《……かりに死んだという話が間違っておってもだな、彼がどこかで生きておったらそれに越したことはないだろう、こういうことは間違っておっても罪にはならんのだ、しかし間違いない。半月まえ、浅草のふぐ屋で二人だけのささやかな追悼会をした席でいった相九のことばだ。そしてその間違いは"こういうことは間違っても罪にはならんのだ"といった間違いにはならなかった。それは二度目の訃報をもたらせることになり、私たちに黄太寿の死をいっそう強く確認させた間違いだったのである。》
 摩訶不思議な痕跡さがしの旅はするべきではなかった。いい換えるのであれば、作者の金石範は孔相伍を登場させるべきではなかった。引用した孔相伍の独白が、それを表明しているではないか。
 孔相伍がいることで、「黄太寿の死をいっそう強く確認させた」。
 あいまいはどこへいった?
 まずもって在日二世文学は、在日意識(じぶんは何者か、何人か?)というあいまいが強みではなかったか。
 何者かになりえてしまっているではないか。
 このような類のあいまいを描くという点では、後藤明生のほうが、よほどうまい。
 となると、在日意識は、在日外国人だけの特権といえるのだろうか?