夢の島=吸殻の山

本内容は「せいじん」を対象としています。

「おせんころがし殺人事件」資料(1)栗田源蔵

 

 1926年11月3日生まれ。十二人兄弟の三男。
 父は川漁師であったが病気がちで、もっぱら家計を支えていたのは母であった。
 極貧家庭であり、食事も安定しておらず、両親から放置されるような形で育った。
 幼少期より夜尿症に悩まされる。
 小学生時は、夜尿症からくる尿臭と内向的な性格が原因でいじめに遭っていた。
 小学校を三年で中退。
 農家に奉公へいくものの、夜尿症と盗癖により追い出される。
 その後は奉公先を転々とする。
 1945年に徴兵され、弘前の歩兵第三十一連隊へ入隊。
 しかし、夜尿症により、2ヶ月で除隊。
 終戦後は北海道の美唄炭鉱にて炭鉱夫として働く。
 そこでの生活で内向的であった性格が変化し、周囲の炭鉱夫同様、粗暴な性格へとなっていく。この間、近隣農家から米を盗み、売りさばいたことより懲役1年6ヶ月を受ける。そこから傷害や窃盗に手を染めるようになり、やがてはヤミ米販売集団である「総武グループ」の中心人物までになった。「はやぶさの源」という異名がついたのも、この頃である。
 1948年、二女性殺人事件を起こす。
 ヤミ米販売を辞め、泥棒稼業に専念するようになる。
 1951年、小山殺人事件を起こす。
 同年、おせんころがし殺人事件を起こす。
 1952年、検見川殺人事件を起こす。
 検見川殺人事件の現場から指紋が検出され、千葉県警によって逮捕された。
 公判にて、検見川殺人事件以外も自供。
 同年8月13日、千葉地裁にて検見川殺人事件およびおせんころがし殺人事件で死刑判決を下される。
 さらに、同年12月21日、宇都宮地裁にて二女性殺人事件および小山殺人事件で死刑判決を下される。
 警察庁広域重要指定事件113号以外では、唯一死刑判決が二度下された。
 控訴するも取り下げられる。
 宮城刑務所仙台拘置支所に押送される。再審を繰り返した。
 判決後は、著しく衰弱し、夜尿症も悪化。自傷行為を繰り返すようになった。
 獄中、『懺悔録』を執筆。出版を希望するも叶わず。
 1959年10月14日、宮城刑務所にて、死刑が執行された。