ツメノめ

本内容は「せいじん」を対象とし、一部過激な思想、表現を用いています。

アーサー・C・クラーク 著『幼年期の終わり』書評Ⅲ

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読みやすさ:9

おもしろさ8
意味ぶかさ:6
※10点満点での評価※

 

 コルタサルの作品に『続いている公園』という掌篇がある。たった三ページで終わる物語だ。
 この物語では、とある男が小説を読んでいる。それも夢中で読んでいる。読むことで澱みなく作中の男が動きだす。作中の男は女をめぐって無慈悲な殺人計画を立てる。そしていよいよそれは実行される。作中の男はナイフを手に殺害すべき男の背後に忍び寄る。その男はまさに小説を読んでいる男であった。
 さて、この物語の起点はどこか。そんなもの、ありはしない。終点だってない。それはウロボロスであり、メビウスの輪なのである。はじめから終わっていて、終わっていながらはじまっている。無と有が重なり、〈完結した世界〉が存在している。そこに時間はない。空間もない。あるのは、残滓である。
 オーヴァーマインドの起点はどこか。これも同じくである。起点もない。終点もない。時間もない。空間もない。アーサー・C・クラークはなにやら思い違いをし、適切に洞察しえていない(「驚いたな! まったくそのままだよ! 『幼年期の終わり』で描いたのはまさにこういうことなんだ……。ゲラーをペテン師と呼んでいるマジシャンやジャーナリストは、そろそろ口を閉じたほうが自分たちのためだと思うね。文句があるのなら、ここみたいに厳密に管理された環境で、ゲラーがいまやって見せたのと同じことを、トリックを使って再現してみろというんだ」)まま、中途半端に書き上げてしまったがために、起点も終点もあり、時間も空間もあるようにみえるが、そうではない。オーヴァーマインドと人類はあらかじめ通じており、同一であった。人類が在ったからこそ、オーヴァーマインドが在ったのであり、オーヴァーマインドが在ったからこそ、人類が在った。卵がさきか、鶏がさきか、ではないのである。じっさい、宇宙と人間の脳は酷似している。そこに偶然はない。あるのは必然だけ。
 同じ異星人の類でも、トラルファマドール星人はそこを端的に喝破している。

「あのう――すみませんが――」うちしおれて、ビリーは案内係にいった、「いまの話のどこがバカなのか教えていただけませんか?」
「われわれは宇宙がどのように滅びるか知っている――」と、案内係はいった、「これには地球は何の関わりあいもないんだ、地球もいっしょに消滅するという点を除けばね」
「いったい――いったい宇宙はどんなふうに滅びるのですか?」
「われわれが吹きとばしてしまうんだ――空飛ぶ円盤の新しい燃料の実験をしているときに。トラルファマドール星人のテスト・パイロットが始動ボタンを押したとたん、全宇宙が消えてしまうんだ」そういうものだ。

「それを知っていて」と、ビリーはいった。「くいとめる方法は何もないのですか? パイロットにボタンを押させないようにすることはできないのですか?」
「彼は常にそれを押してきた、そして押しつづけるのだ。われわれは常に押させてきたし、押させつづけるのだ。時間はそのような構造になっているんだよ」

 時間の構造。残滓としての。トラルファマドール星人は〈完結した世界〉にいることを知っている。
 われわれは?