ツメノめ

本内容は「せいじん」を対象とし、一部過激な思想、表現を用いています。

ポーリーヌ・レアージュ 著『O嬢の物語』書評Ⅰ

f:id:nekonotsume:20200908120937j:plain

読みやすさ:3
おもしろさ5
意味ぶかさ:10
※10点満点での評価※

 

   1. ドミニク・オーリー人物像

 『O嬢の物語』は、ポーリーヌ・レアージュという、匿名作家によって描かれた、ひとりの女性が他者の所有物になるまでの恋愛小説である。本書にて、ポーリーヌ・レアージュは、風変わり、かつ新たな文学の一面が覗ける作品に授与される、ドゥ・マゴ賞を受賞した。ちなみに、この匿名作家は、ドミニク・オーリーという、女流作家であることが判明している。それは、文庫本の著者紹介の方にも記されているが、ここではもう少し掘り下げた人物内容を書いていこう。
 彼女、ドミニク・オーリーは、小説家である他に、ジャーナリスト、編集者、また、有名な批評家としても名を馳せた女性で、権威ある文学賞の審査員も務めたことがあり、フランス文学界の重鎮的存在である。性格も控えめで知的、まさに淑女と呼ぶにふさわしい人物であった。そんな彼女がなぜ、一般女性が性奴隷になるまでの、過激極まりない作品を書いたのか。
実は当時、編集長で、彼女の雇い主であった、批評家のジャン・ポーランが「女性は性愛文学を書くことはできない」と述べており、それを誤りだと証明するため、偽名を用いて書いたという。しかしながら、他にも理由があったようで、彼女は「親子ほどの歳の差(『O嬢の物語』出版時、ジャン・ポーランが六十六歳、ドミニク・オーリーは三十七歳)があり、たいして可愛くもない自分が、女性との噂が絶えない人気文化人である彼の気を引かせるにはこれしかなかった」とも話している。『O嬢の物語』の序文に載せられているジャン・ポーランの『奴隷状態における幸福』の中で、「世の男性が今までに受け取った最も激越な恋文であろう」という文があるが、まさに「恋文」という点においては間違いない。彼女の背景を考慮すると、なおさらラブレターとしての要素が強く感じられる小説ともいえよう。ちなみに、これがきっかけか分からぬが、ジャン・ポーランとドミニク・オーリーは恋人同士になっている。
 現在ではこうして、『O嬢の物語』の創作過程が、ほぼ全て公に晒されているものの、『O嬢の物語』が世に出回った頃、創作理由が分からないどころか、この謎の匿名作家の正体すら、ずば抜けた読書家は見破れなかった。本書を翻訳した澁澤龍彦も、誤った憶測をしており、ポーリーヌ・レアージュジャン・ポーランではないかと考えを固めていたそうだ。それもそのはず、この頃、エロティック文学は女性禁制の色が濃く、読者が少数であり、なおかつ書き手はさらに少なかった。それにくわえ、十八世紀風懐古性が強い文体はジャン・ポーラン独特のものであるとし、多くの者が、判断を狂わされていた。ゆえに、一九九四年、ドミニク・オーリー自身が、自分がポーリーヌ・レアージュであると公言するまで、ポーリーヌ・レアージュたる匿名作家の正体は、不明瞭のままであった。以上のことから、一九九四年以前の批評家は小説のみでしか、『O嬢の物語』を読み解くことができず、明確な作者の心理を取り入れ、様々な角度から小説を眺めるということが困難にあったと考える。だからこそ、敢えて私は、本書をポーリーヌ・レアージュという匿名作家による作品としてではなく、ドミニク・オーリーという女流作家による作品として述べていこうと思う。
 これから書評をしていくうえで、ひとつ書かねばならないことがある。それは、本書の続篇で、『O嬢の物語』の末尾に「削除された最後の章」として大まかなあらすじが記されている、ポーリーヌ・レアージュ名義での『ロワッシーへの帰還』という小説のことである。この小説の内容は左記のとおりだ。本書の末尾をそのまま引用する。
《Oの物語には第二の結末がある。つまり、ステファン卿に捨てられようとしている自分を見て、彼女はむしろ死ぬことを選んだ。ステファン卿もこれに同意した。》
 これは、ドミニク・オーリーが書いたものではなく、ポーリーヌ・レアージュ名義ではあるものの、別の人物が書いた作品であるため、ドミニク・オーリー著『O嬢の物語』と定義する本稿では、『ロワッシーへの帰還』は『O嬢の物語』に含まないものとし、結末は第四章の『ふくろう』とする。

   2. 家具のように整然たる

 本書そのものに焦点をあてよう。
 過激なポルノ小説と噂される、この『O嬢の物語』を読む前、私は、どんなふうにして、めくるめく官能の世界へ誘われるのだろうと、鼻腔を膨らまし、荒い息を繰り返しながら、桃色の期待に胸躍らせていた。と、書きたいところだが、実際のところ、ポルノ小説が大変に苦手である私は、性愛文学を代表する本書に対して、沈鬱な想念しか抱けていなかった。恥ずかしながら、ポルノ小説にかかわらず、情感溢れる小説は苦手なのである。だが、仕方なしに読んでみると、暗い想念を払拭するぐらいに、官能の世界とは無縁の無気味さを感じさせ、さらには、なかなか思考して愉しいと思えるような感想をもたせてくれた。それは、文体が堅苦しいこともあるのだろうが、なにより、性行為に及んでいる際、主人公Oによる剥き出しの感情がなく、出来うる限り、情念が削ぎ落とされ、物語自体を全面に押し出していることに依るところが大きい。けれども、性愛文学らしからぬ作品だとはいいがたく、物語には始終、淫靡な性がついてまわっており、全くもって耽溺な雰囲気はなかったといえば、嘘になる。なので、一口に言い表すには、なかなか難しい、一筋縄ではいかない味わい深い書物なのである。
 では、ここで、本書を読んでいない方のために、章ごとの題名と共に、独自の見解を述べつつ、簡単にあらすじを載せておこう。この『O嬢の物語』は四章からなり、それぞれ各章の題名にふさわしい展開がなされている。
 一章『ロワッシーの恋人たち』では、恋人ルネによって、ロワッシー村の、とある館に何の脈絡もなしに連れて行かれ、そこで奴隷としての調教を受ける。館内でのルールは単純。女性は男性に対して絶対服従というもので、Oはあらゆる男から陵辱され、鞭打たれる。立派な奴隷として認められ、卒業するまでの流れが記されているのがこの章である。いわば、ロワッシー村にある館での非現実的な生活が主となった章だ。読者は唐突に、社会的に自立した一般人が、奴隷になるところを眼にすることになる。
 二章『ステファン卿』は、館から出たあとの私生活が描かれ、ルネが盲目的に尊敬する人物ステファン卿なる、新たな主人との関係が軸になっている。この章で、ルネはOを、ステファン卿に進んで「引渡し」ており、構図としては、頂点にステファン卿が君臨し、その下に無意識の奴隷としてのルネ、さらに底辺に、ルネが飼う家畜Oとなっている。いってみれば、牧場主よりも偉い、経営者に直接上等な家畜を渡したというところであろうか。この頃は、Oにも人間的思念はあり、奴隷としての自分が、以前とは違うふうに知覚する世界への戸惑いを抱いている。ステファン卿との主従関係の他に、こういった違和感や葛藤も、魅力的だ。ここでは、奴隷から家畜への流れが根底に漂っている。
 三章『アンヌ・マリーと鉄環』からは、急激にOの内面に変化が起こり始める。まさしく、起承転結の「転」というに申し分ない章である。恋人ルネへの想いは薄れ、身も心もステファン卿の絶対的僕となったOが、真にステファン卿の所有物になるため、彼に伴われ、アンヌ・マリーの館に訪れる。この館は、ロワッシー村の館とは違い、男性はおらず、主である中年女性のアンヌ・マリーと何人かの女性が住まう館だった。だがやはり、女性しかいない、普通の館というわけにはいかない。この館は、アンヌ・マリーというブリーダーが、飼い主である依頼人の要望にあわせて、「家畜たち」に何らかの処置を施す場所で、Oは、ロワッシー村の頃よりも、凝った調教を受ける。そして、最終日。ステファン卿が依頼した内容が実行されたあと、館から出るのだが、その依頼内容は、Oに焼き鏝と鉄環を課すものであった。焼き鏝は容易に想像がつくだろう。ステファン卿のイニシャルが刻まれた鏝を赤くなるまで熱し、臀部に押し付けたのである。鉄環の方だが、これは、陰部の割れ目に穴を開け、そこに鉄環を通すというもの。どちらもかなりえぐい。しかし、強い嫌悪よりも、崇高なものを目撃したような何か神々しさを感じたのは、Oの変化のせいだろうか。この章で、Oは抗うことなく、家畜から所有物へと昇華している。もちろん、これは読めば、すぐわかる。明白な部分として、以前は、鞭打たれた痕を恥としていたものが、この所有物である証明を身体に刻んでから、却って誇りに思うようになり、進んで見せびらかしたいといった欲求が現われたところだろう。この章で、Oは、完全なるステファン卿の所有物になったことで、今までにない自信に満ち、ひとりの女性としてではなく、所有物として振る舞うようになったのだ。
 そして終章である、四章『ふくろう』は、ステファン卿の物と化したOが、様々な動物の仮面の中から選んだ、ふくろうの仮面を被せられ、陰部にある鉄環に鎖を繋がれて、彼の友人主催の夜の舞踏会へ、連れて行かれる。陰毛まで脱毛し、完全な裸となった状態で、舞踏会の見世物となり、朝まで衆目に晒され続けたあと、Oはステファン卿と彼の友人にかわるがわる犯され、物語は終わりを迎える。この終章で注目すべき点は、やはり、見世物となっている時の、周りの人間たちの反応だろう。皆が一様にOを人間として扱っていない。露骨な好奇心で、彼女の身体に触れてみたり、鉄環を眺めたりするものの、誰もOに対して話しかけないのだ。いってみれば、マネキン人形と何ら変わらない扱いを受けている。けれど、Oもまた、終わりに差し掛かるにつれ、彼女の内面がフェードアウトしていっているのが、興味深い。そこに私は、性愛文学とはかけ離れたにおいを感じ取った。所有物から「完全なる物」への移り変わりは、ある種の想念を抱く。これは後述でゆっくり記すことにしよう。
 余談だが、なぜ終章で、様々な動物の仮面の中、Oは「ふくろう」を被ったのか、何か含まれた意味合いがありそうで、一通り調べてみた。まず、「ふくろう」という単語。英語圏では"owl"と表記する。もしや、これと掛けているのでは、と考えたが、『O嬢の物語』はフランス語圏の作品なので、フランス語で「ふくろう」は、"hibou"または"chouette"となる。この場合、Oは女性であるため、雄の"hidou"ではなく、雌の"chouette"が妥当となり、イニシャル的な意味合いにおいては、まったくそうでないように思われる。それでは、フクロウという動物における象徴は何か。これは諸説あり、意味も多様にある。たとえば、知恵の鳥であったり、先見の明をもつ鳥であったり、はたまた、日本では「不苦労」という当て字から幸運の鳥としても捉えられている。フランスはどうか。これが、やや的外れなものでスパイの象徴であるそうだ。だが、スパイの他に、「ふくろう」は大変ミステリアスな雰囲気を持つ鳥というイメージがあるそうで、このことから、作中での「ふくろう」の象徴は、舞踏会に出席した周りの人間が抱いた、人間であって人間でないOに対する印象なのではないかと、私は考えている。
 少し話が脱線してしまったが、『O嬢の物語』とはこんな話である。起承転結が各章ごとに、はっきりと分かれ、理路整然としている。なにより、章の題名が、しっかりとその章の中心におかれているため、思い出す際も、おおよそ苦労しなかった。ただ、物語自体に大きな波はない。抑揚なく、陵辱され、鞭打たれ、陵辱され、鞭打たれ、の繰り返しであり、たまに同性同士で性行為に耽ってみたりする。そんなものである。なので、私自身の見解を交えたために、複雑なようにも見えるが、そんなことは全くなく、文体が堅苦しい、少々読みづらいと思うぐらいではなかろうか。本当に、性に関することばかりなので、私の場合、辟易して読み終えるのに、一ヶ月かかっている。正直な話、読後感は心地好くなかった。疲れた。この一言に尽きる。しかし、文学としては非常に薫り高いのも事実で、多少小説を通して、考えに耽ることが好きな読者であれば、サディズムマゾヒズムの方へ思考を寄せることもできよう。
 偏に、読者に媚びを売り、読者の色欲にずかずかと踏み込んでくるようなポルノ小説とは違って、読み物であることをしっかりと線引きしてから世界観を提供する、読者とは一定の距離を保ち続けるその控えめな姿勢が、読者に思考の幅を与えているのだろうと考えている。
 さて、今更ではあるが、『O嬢の物語』を型通りの恋愛小説として触れていく気は更々ない。なぜなら、本書の序文にある、ジャン・ポーランが記した『奴隷状態における幸福』以上に優れた書評文を書けるとは思えないからだ。なので、正攻法で本書をまとめあげた書評文が読みたいという方は、ジャン・ポーランの『奴隷状態における幸福』を読んでもらえばよいと思う。『O嬢の物語』そのものだけを実に上手く評論している。
 だからといって、サディズムマゾヒズム、ましてや、性愛に関してこれから書いていくわけではない。私は、書物であることをわきまえている『O嬢の物語』にて、素直に自分が感じた、人間から「物」への変遷に対する想念を、実存主義文学と比較させつつ、書く。
 そのうえで、まずは、実存主義文学について、説明しなくてはならない。

   3. 無機質な人間らしさ

 では、はじめに、実存主義文学を述べていくうえでの根本、実存主義という思想についての概要を記そう。
 実存主義とはすなわち、神よりも個人に哲学対象が向けられた、いわば、人間の実存を中心においた思想であり、また、気難しい言葉で単純に説くと、普遍的・必然的な本質存在に相対する、個別的・偶然的な現実存在の優越を主張する思想でもある。
 具体的な例が挙げづらいので、喩え話にて、実存主義がどういったものか、感じてもらおう。
 スラム街に住むひとりの少年がいたと仮定する。ある日、両親はひょんなことで殺されてしまい、彼は天涯孤独の身となってしまう。無論、まともな職に就くには幼すぎる彼にとって、生きていくためには物乞いになるしかない。しかし、彼は、泣き喚きもせず、この現状を受け入れ、物乞いとして淡々と新たな生活を始めていく。
 これが、実存主義である。つまりは、己の運命という大きな流動に対して、ひどく無感動かつ無抵抗なのだ。状況的には、街中を駆け回って、マフィアに身を売り、人間的生活をはじめることも出来るのだが、それを行わないという点がミソである。
 この思想は、第一次世界大戦後に明確に現われたもので、能動的な運命愛を展開したニーチェが、神を否定する実存主義系譜の先駆者としてあげられる。彼の発言した「神は死んだ」は有名だろう。世界的に広まったのは、第二次世界大戦後で、サルトルによって浸透していった。サルトルのもつ実存主義は社会参加的色合いが強く、六十年代の学生運動の背景にもなっている。
 実は「私」という一人称からなる文学と実存主義思想は、非常に相性がよく、文学における社会主義とは違い、主題としては大変に息が長く、戦前から現在に至るまで多くの作家たちから取り上げられている。
 幾人かの著名な作家を記すと、フョードル・ドストエフスキーアーネスト・ヘミングウェイ、ジョン・ドス・パソスアルベール・カミュ、ジョン=ポール・サルトル、ソール・ベロー、バーナード・マラマッドがいる。無論、日本にも実存主義文学らしい小説を残した人物はおり、椎名麟三大江健三郎がそうである。
 この中で、最も実存主義の色が濃い作家作品は、アルベール・カミュ著『異邦人』、ジョン=ポール・サルトル著『水いらず』、椎名麟三著『赤い孤独者』だろう。今のところ、私が読んできた書物の中では、これらが実存主義文学を語るにふさわしい小説群だ。
 これらの物語の主人公たちに共通している事柄は、前述にもある通り、あらゆる事象に対して非常に淡泊であり、たとえ苦難な運命であれど、決して逆らおうとしないという点の他にも、本能的な感情の発露が欠如していたり、いかような状況であれ、合理的考えが崩れない、なおかつ、自分を「自己」とは認識せず、ひとつの「物体」として、思考するという点がある。
 この特徴から、非人間じみた印象を受けただろうが、まさにその通りで、実存主義文学の作品に登場する主人公たちは、積極的に「人間」から「物」になろう、あるいは「人間」を「物」として認識しようと奮闘している人間たちなのである。人間味が感じられにくいのは、至極当然である。だが一方で、「物」に徹しようとするあまりに覗ける、とても人間臭い一面が存在する。
 それは、物事に対して過度に悩み、考えているところである。これは、椎名麟三著『赤い孤独者』という作品に、よく表れているだろう。共産主義の兄に、ノンポリの友人、そしてキリスト教徒の社長に、あらゆる主義主張を、押し付けられながらも、思い悩み、胸の内で絶えず、自分の運命に従順であろうとする姿は、実存主義文学においても、なかなか能動的に映る。くわえ、この作品は、「愛」を主題に、共産主義実存主義ノンポリ実存主義キリスト教実存主義と明確な構図が作れてしまうほど、人物たちの個性がしっかりしているため、文学上での実存主義を知るには格好の書物なのかもしれない。

   4. 特異な小説

 実存主義文学をふまえ、改めて『O嬢の物語』に視点を戻そう。
 この『O嬢の物語』であるが、人間から「物」への流れや、Oが自身の運命に抗わない姿勢は、まさしく実存を彷彿とさせる。ただ、今まであげてきた実存主義文学と違うのは、一般的実存主義文学が、人間から「物」になろうとする、あるいは人間を「物」としてみようとする、主人公の能動的行動であるのに対し、Oは人間から「物」に作り変えられる、人間から「物」に見られるといった、受動的・受身の実存なのだ。
 恋人の手によって、人間から奴隷へ。主人によって、奴隷から家畜へ。調教師によって、家畜から所有物へ。そして、大衆によって、所有物から「物」へ。
 Oの抗うことのない意思にもよるのだが、人間の手で、半ば強制的に「物」に変えられてしまうというのは、もし、これをれっきとした実存主義文学と認めるのなら、特異な実存であり、他に類を見ないシロモノであったことだろう。そういった意味では、どことなく、他の文学とは一線を画し、悪を聖なるものとして昇華させる、ジャン・ジュネの作品とも雰囲気が似ている。無論、同性愛をよく描いているという部分も含め、だ。
 本書のあらすじ説明等では触れていなかったが、ドミニク・オーリー自身が、積極的な両性愛者ということもあり、本筋の側面に、ジャクリーヌなる女性モデルとの関係がある。Oの人間臭さが漂うところも、実存主義文学らしからぬ、この女性に対する恋慕の情によって表れているのだから面白い。これは、ドミニク・オーリーの発露部分だといっても過言ではないだろう。ジャクリーヌに対するOの感情の機微は実に生々しく、理路整然とした文章の中では唯一、浮いて見えるのだ。
 かのことから、『O嬢の物語』を実存主義文学と定めるなら、とてもユニークな作品である。だが一方で、もっとも実存主義文学らしいとも、私は考えている。結末が、芸術品を思わせるような崇高な「物」としてOを完結させているところが、大きい。前述にある、私が読んできた実存主義文学はどれも、「物」としての完成がないのだ。運命に従順であるがために、その運命に殺されてしまったり、何かを喪失してしまったりで、皆、「未完成」で終わってしまう。それを考えると、「物」になりきったというよりは、「物」になり、「物」のまま終わる『O嬢の物語』は、理想的な実存主義文学ではないかと、思念してしまうのだ。偏に、支配欲が密接に絡んだ性愛が主題になったからこそ、このような直接的な「物」としての終わり方が迎えられたのかもしれないといっても、過言ではないような気がする。

   5. 虚構のうえでの服従

 もちろん、ドミニク・オーリーが、本書『O嬢の物語』を書く動機として、ジャン・ポールの「女性は性愛文学を書くことはできない」という発言に、反発するかたちで創作したのもあるのだろうが、もし仮に、ジャン・ポールに対するラブレターである気持ちが強かったのならば、自分はここまであなたを愛しているという、表現をするために、苛酷な環境にOの身を委ねさせ、この絶対的服従を用いたのではないかと、私は考えてしまう。そうした場合、著者のドミニク・オーリーですら、像として、また「物」として、Oを扱ったことになるであろう。恋文なる物語上での大きな流動に粛々と従ったOこそ、真の実存主義的人物ではないだろうか。