夢の島=吸殻の山

本内容は「せいじん」を対象としています。

マーティン・スコセッシ 監督『グッド・フェローズ』評Ⅰ

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* 社会人の生き方

 
 レイ・リオッタ演じるヘンリーがギャングに身を投じたのは、支配欲や権力欲の充足のためではなく、名声と金儲けのためであった。ゆえに、どういうわけか、奇妙なことに、かれはギャングであるにもかかわらず、這いあがることに、あるいはのし上がることに、まるで魅力を感じていなかった。それよりも、生活を豊かにしていくことに魅力を感じ、そこに注力していた。そのため、かれは『スカーフェイス』のトニーのように、壮絶な最期を迎えることなく、最終的にどこにでもいる一般人になっていった(というよりも、「一般人になれた」?)。
 ヘンリーはギャングになる必要があったのだろうか? まったくもって、なかった。たまたまである。貧困の家庭でなければ、あこがれの対象がマフィアでなければ、かれはギャングにならなかったにちがいない。かれはギャングにならずとも、どこでもそこそこうまくやっていけたはずである。
 その証拠に、ヘンリーには他のギャングやマフィアたちにはない、いかにも凡人らしい才能があった。それは、どのような仕事や環境にでも適応できる力と、高望みをせず現状に満足する力である。皮肉にも、そのふたつの才能は、マフィアの世界において、かれの最大の武器となった。この凡人たる才能のおかげで、沸点が異様に低い危険人物のトミーや、冷徹かつ人殺しをも厭わないジミー、じぶんのボスであるポーリー相手に、中間管理職のサラリーマンのような、柔軟かつ穏和な立ち回りを演じることができた。そのうえ、危険や破滅が待ち受ける〈完全な自由〉の頂とは縁遠く、〈制約された自由〉のなかで最大限に人生を満喫することができたのである。
 感情では動かず、理性にしたがって行動し、姑息に目先の自己の利をコツコツと得る。これがヘンリーの基本姿勢であった。そのため、じぶんの当面の利益となるものがあれば、恩義のあるボスの注意を平気で無視し――きつく注意された際に、その場で反発するのではなく、すんなりと聞き入れたフリをするのは、いかにもかれらしい――、とことんまで食らいつく。いっぽうで、損を被りそうであれば遠慮する。この場合の損とは、殺しであろう。仲間であるトミーやジミーは自らすすんで容赦なくひとを殺したが、ヘンリーだけはそうでなかった。殺しをすることへの利(金銭、満足感、ストレス解消)が少なく、かえって殺しをしないことへの利(潔白、まわりの者との差別化)が多いために、その領域へ踏み込まなかったのである。
 これらのことから明らかなように、ヘンリーは、ギャングとして中途半端である。振り切れていない。つまり、華がない。際立った個性がない、圧倒的な野心がない、そそられる魅力がない。しかし、だからこそ、何者にでもなれた。同時に、何者にもなれなかった。
 一般人。どこにでもいるひとり。
 これはネガティブな印象を想起させるかもしれない。だが、それは誤りである。ひょっとしたら、一般人であることこそが、どこにでもいるひとりであることこそが、社会のなかにいる個人――すなわち、〈社会人〉――においての、もっとも合理的かつ強い生き方なのかもしれないのだ。
 じっさい、トミーは死んだ。ジミーとポーリーは破滅した。ヘンリーだけが、波はあるものの、幸せでありつづけた。
 個性を望んではいけない、野心を抱いてはいけない、魅力をもってはいけない。さすれば、社会から豊かな生活があたえられる。――よりよい〈社会人〉の生き方を実践するのは、なんと難しいことか。