夢奇述——序文(逍遥するあなたに、もしくは彷徨するきみに)
かつて夢を探究した著名な人物に、無学な私が知る限り、エルヴェ・ド・サン・ドニ、ジークムント・フロイト、カール・グスタフ・ユングがいた。
私はかれらの著作に目を通したことがある。
そして、ひとつの疑問をいだいた。
かれらはそれぞれの視点で夢をこねくりまわし、探究していた。
しかし、夢とはまずもって探究できるものなのだろうか?
私にとってみれば、前述の先人たちが行ってきた探究法——「夢を開拓し、征服する試み」ないしは「夢を分析し、操作する試み」——は正しいことでないように思われる。というのも、それは〈資本主義社会によって形成された有意識〉が、〈秩序のない本来あるべき姿としての世界〉を侵犯し、歪めてしまっている——西洋史におけるルネサンスや大航海時代の知識人が行った方法と何ら変わるところはない——と考えるからだ。
有意識は、われわれがこの実在世界において快適に過ごせるよう自我のなかで生みだした、あくまで中途半端なツールである。これはモル的意識(国家やグループといった集合意識)と分子的意識(自我に宿る無数の分裂した意識)の中間に位置する。ゆえに、有意識が意識の大半と考えるのは欺瞞であり、傲りである。有意識はたしかに、ふだんモル的意識に向いているため、この世界(資本主義社会)においては順調に機能しているが、そこから一歩はみ出せば、まったくもっての役立たずである(「なんで麻薬をやってはいけないのか?」「なんでひとを殺してはいけないのか?」資本主義社会の枠を取り払って、その説明をできる者は、はたしているのか?)。
前述した先人たちは、資本主義社会的価値判断を顛倒させてしまわなければならない夢にたいして、その有意識を、そもそも資本主義社会的であることを知り得ずに——意識せずに(有意識を意識せずに使用するとは皮肉である)駆使し、探究した。よって、夢は——無意識界(または分子的意識)は、その姿形を無残にも引きちぎられ、資本主義社会の枠ないしは資本主義社会によって形成された有意識の欲望の枠に押しこまれ、整った形に矯正され、ゆがんだ解釈――つまり、利用できるようにした夢ではない夢(奇形児化した夢)に変貌させられた。これが正しいといえようか?
本来の夢は、資本主義社会的規定に沿った意味などもたらさない。夢は夢でしかなく、そこにあるのは、荘子やサルバドール・ダリが示したように、万華鏡のように千変万化する〈私〉の世界と〈私〉しかない。つまり、夢は完全に無意識界(または分子的意識)の領域であり、そこへ一筋の有意識である〈私〉が侵入し、知覚する現象である。
ようするに、無数の〈私〉が世界を形成し、有意識の〈私〉はそれをさまよう。有意識の〈私〉は、〈私〉にとっての部外者である。〈私〉でありながら、〈私〉でない。まさしく、有意識の〈私〉は無力な傍観者に過ぎず、探求者でもなければ、征服者でもない。このことを忘れてはならない。これを絶えず、有意識に刻みつけておけば、無意識界に有意識が脅かされずに済む。悪夢(無意識界による有意識の拒絶)もみなければ、夢による精神の不安定化(無意識界による有意識の侵蝕)もない。〈私〉に敬意を払え。そして、〈私〉に溶けこむ努力をしろ。さすれば、安全に、夢を正しく把握することができる。前述した先人たち以上に。
さて、えらく遠回りをした。ここからようやく、アントナン・アルトーのように、ダニエル・パウル・シュレーバーのように、陽気に、陰惨に、私は私の夢のなかを闊歩する。逍遥を望むあなたに、もしくは彷徨を望むきみに、私の無意識界(または分子的意識)を案内しよう。