夢の島=吸殻の山

本内容は「せいじん」を対象としています。

島尾敏雄 著『贋学生』評Ⅲ

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* 聖性宿る

 
 加害者と被害者には、ときとして奇妙な関係が生まれる。
 ひとつの事件を起こす・起こされる以上の、友情、恋慕、協力、共存といった結びつきが芽生えるのだ。俗にストックホルム症候群と呼ばれる。好例としては『狼たちの午後』が挙げられる。アル・パチーノ扮するソニーとその仲間たちから成る銀行強盗団とその場に居合わせた銀行従業員のあいだに、はじめこそ支配と服従の雰囲気がゆらりと立ち昇っていたが、警察が包囲する頃にはそれが仲間意識へと変貌し、さらにはソニーの強盗理由や反社会的な発言がメディアを通して伝わり、それを遠巻きに見物している野次馬たちやテレビ越しに視聴していた者たちにも共感の情が連鎖していく。
 ストックホルム症候群は、誘拐事件や人質事件、監禁事件で起こりやすいという。これは殺人事件などとちがって、継続的に犯人とつながりを持つからであろう。臨床心理学においては、心的外傷後ストレス障害としてあつかわれているが、さて、それは本当なのだろうか?
 被害者はたしかに物質世界においては被害者であるが、すべてにおいての被害者ではない。加害者→被害者という構図だけでなしに、加害者←被害者という構図もまた同時に生じているのではないか。それは、モースが提唱するような〈贈与論〉ではない。目にみえない価値を想起させるような、両者間で交わされるこじれた一方通行である。加害者にやさしくされたから、被害者は加害者に好意を抱くのではない。被害者は身の危険を回避するために媚を売り、加害者がそれに甘んじるのでもない。はじめから、ある種の協力関係がある。ひとつの事件にむけて加害者は被害者へ、被害者は加害者へ、それぞれ相補し、複雑な協力関係を築きながら、加害者然へと、被害者然へと、明確に仕立てあげる・あげられるのだ。そのもっともたる一方通行的交流の片鱗が『贋学生』では窺うことができる。

         *

 蚊帳をつって電灯をつけたまま、ふとんの上で横になり、たばこを吸っていた。
 シーツを洗濯屋から帰って来たものばかりのものと取り替え、その白いのりのきいている感触の上で、たばこの煙を輪にしながら、じっとしていた。
 そこへ、木乃がしのび込むようにやって来た。
「あら、もう寝たの?」
 そう言って、木乃は蚊帳の中にはいって来た。
 私はどんな気持でいたのだったろう。
 木乃の顔がくまどって見え、彼が悪質の病気を持っているのではないかという不安があったことと、抵抗し難い目前の現実といった感慨があった。状況判断と決心がつかない気持。ずるずると目前の現実を、自分の無力感で見ている気持。
「いいの?」
 木乃はきいた。私は目顔でうなずいた。
「電気を消しなよ」
 私は蚊帳越しに、スイッチをつかまえて電灯を消した。未知のおののきで、私は身体があつくなり、手がふるえた。
 木乃は私の足もとの方にうずくまった。
 私は奥の二つの部屋の下宿人の動きを過敏にきいていた。突然何かの用事ではいって来ないとは保証出来ない。
 木乃は私のパンツをずるずるとはいで行った。少し嫌悪があった。
 私は自分の股間に熱い息吹きを感じた。一匹の猫が舌なめずりして皿の水を飲んでいる幻覚で頭を占領された。
 ふと木乃が大きく動き、私の股間は木乃の二つの臀部を感じ、私の位置は巧妙に木乃の手で転倒させられていた。
 それは誠に瞬時のことであり、そこまでを私は予想していなかったので、一種の敗北感で強いショックを受けた。
 私はだめになる。ただ、全くの受身でいる姿勢は、私に初めてのことであり、それの応対のしようがない。長崎の旅館で木乃が言った後味の悪い言葉が思い返され、その言葉がへんに効果的に作用していることを認めない訳にはいかなかった。
 やがて木乃は、すっかり後始末をして立ち上った。「どう? 後悔した?」
「何でもありゃしないよ」私ははき出すように言って、立ち上り電灯のスイッチをひねった。
 奥の部屋で書物のぶつかる音がした。
「当分続けなきゃ効果がないよ」
 木乃はそう言って、にやりとした。
 彼の尻は女のように大きくたれ下っているように見えた。
「じゃ、おやすみ。ゆっくり眠りなさい」
 木乃は、いくらかはにかんだように、何故か足音をしのばせて帰って行った。
 私は放心して、とこの上に横になった。たばこをもう一本吸った。
 これは一体何のことであったか。世の中が一層きめをこまかくびっしりつまって私の眼の前で私の行手をさえぎるように立ちふさがって来たことを感じた。
 何が何だかわからない。然し私は何となく落っこちてしまったと感じた。

         *

 木乃は度々、バイセクシャルであるような描写が見られるが、〈私〉にはない。そもそも〈私〉は同性愛者でもない。だから、交わることによろこびはない。にもかかわらず、この場面において、〈私〉は木乃と交わる。何のために? 木乃に診断された奇病を治すためだろうか。そうではない。交わったところで癒えるわけがないと、〈私〉は承知していた。ではなぜ? 〈私〉自身、わかっていない。わからないままに――何であれば、嫌悪を感じるままに――木乃を受け入れた(あるいは〈犯された〉?)。いっけん、不可解である。〈私〉の態度は矛盾している。しかし、これは逆説的に捉えるのであれば、木乃との交わりを〈私〉は本能的に肯定的な出来事として認識していたと考えることはできないだろうか。〈私〉にとっては、外部から持ちこまれた、不運な出来事であるにはちがいないが、いっぽうで、一種の冒険であり、退屈で単調な、資本主義的、あまりに資本主義的な日常を打破する可能性をまとった出来事でもあったのかもしれないのだ。ゆえに〈私〉は拒まず、うしろ向きではあるが、それを求めた。欲した。それこそ、テレビで大々的に報道される凶悪事件を嫌悪すべきものとして捉えていながらも、その事件の様子をみて、あれこれと批評しながら、続報を期待してしまうわれわれのように。『狼たちの午後』の主人公のソニーはいう。「いいか、よくきけよ。これにはおれだけじゃない。相棒や八人の人間の命がかかってるんだぜ。まもなくおれたちが蜂の巣みてえに撃たれて血や脳ミソまき散らしておっ死ぬだろうが! それをそっくりテレビで放送されて暇な連中がたのしんでみるってわけだ。そっちは商売だからいいんだろうが、こっちはどうなるんだよ? 殺され損じゃねえか」〈私〉と木乃の関係はそれを極度に拡大し、引き伸ばしたものに過ぎない。
 加害者もまた被害者であり、被害者もまた加害者である。そこには、ジャン・ジュネの提唱した〈聖性〉がある。