ツメノめ

本内容は「せいじん」を対象とし、一部過激な思想、表現を用いています。

金石範 著『往生異聞』書評Ⅰ

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読みやすさ:8

おもしろさ6
意味ぶかさ:6
※10点満点での評価※

 
 時のながれでの流行り廃りがある。
 それによって埋もれてしまう作品がある。
 しかし、埋もれながらも、己を認めてくれる読者を待ち望み、根強く鈍く光る不気味な作品がある。
 その一例として『往生異聞』がある。
 本篇はまぎれもなく、埋もれている。昨今、この作品をだれが知っていよう。一部の好事家が作者の名を知っているだけであり、その作者の作品といっても知られているのは『万徳幽霊奇譚』か『鴉の死』ぐらいであろう。埋もれている理由は判然としている。まず、受賞歴が大佛次郎賞毎日芸術賞のみと乏しい。物語の主人公がたいてい、朝鮮人である、あるいは在日朝鮮人である。そして、作者自身、はたまた作品に、さいきんの文学青年には疎まれるような、泥臭い政治色が反映されている。つまり、日本語で書かれていながら、どこか日本人――というよりも、〈日本人世界〉と表現したほうが正しいのかもしれない――を拒絶するような気配が充満しており、さらには軟弱な読者を容赦なく粉砕する、ひと口にいって、読者が品定めをするのではなく、書物が読者を品定めする類の作品なのである。
 触れぬ神に祟りなし、とはよくいったもので、生半可な心持で金石範の作品に向き合うと、ドロドロとした溶岩でできた無骨な拳で胸を突かれ、えもいわれぬ息苦しさを感じる。
 だが、この息苦しさは、全篇の底流を貫くいささか偏狭な思想や、主人公が身を置くこととなる排他的な雰囲気によるものではない。途方もなく、人物たちに血が通っている。たしかに息をしていて、読者に逼迫し、慟哭をあげる。かの者たちの慟哭が黒々とした――赤々とした――情念の激流となってぶつかり、思いがけず共鳴してしまい、息がしづらくなってしまうのである。『往生異聞』の中心的人物である黄太寿はとくにそうだ。
 黄太寿を眺めていると、私はかつての大学時代の友人を思い出す。
 かの友人は同学年であった。同学年ではあったが、私とは十歳も年が離れていた。浪人をしていたわけではない。苦学生だったわけでもない。かれは過去に高校卒業後、とある大学に入学し、卒業していた。定職にも就いていた。しかし、やはり筆で身を立てたい、文学の世界に再度挑戦したいという志で、ふたたび大学に、学問の道に、身を投じたのである。
 かれは酒が好きだった。異様なほどに酒が好きだった。朝も呑み、昼も呑み、夜も呑んだ。かれは酒を喰らい、酔うと、当時の私以上に幼くなり、よく大口を叩いた。他人にたいして失礼な発言をし、十歳も離れた温和な女学生に赤ン坊のように甘えた。痛々しい呑み方だった。入学当初から――あるいはそれ以前から神経のほころびはあったのだろう。つねに酒を呑んでいないと落ち着きがなかった。そして、鬱状態だった。かれは心療内科で処方された薬を度々酒で流しこんでいた。身体は硬質な脂肪で肥え、声はただれていた。かれは文学をやるために、あらたな大学に入った。しかし、その志はどこへいってしまったのだろう。月日が経つごとに志は擦り切れ、それを包み隠すように酒量が増え、やがて心は酒と精神安定剤に完全に蝕まれてしまった。かれは夏がはじまるまえに大学へ顔を出さなくなった。
 さいごにかれと会ったときのことを鮮明に覚えている。雨がふっていた。めずらしく、かれは酒を呑んでいなかった。かれが酒のある店は避けたいと言い、喫茶店へ行って、話をした。
 私はかれを励ました。いまとなっては愚かなことをしたものだと自身を冷ややかに責めるが、当時は思慮が足りなかった。私はいったのだ。文学やろうよ、文学をやるために大学に入ったんじゃないのか、すこしずつでもいいから、本を読もう、評論を書こう、ひとつの物事に打ちこめば前に進めるはずだよ、と。そのときのかれの顔を忘れない。かれは苦しそうに悲しそうに顔をゆがめた。この気持はけっしてわかるまいという顔だった。そしてかれはつらそうに、塊を吐き出すように、言った。もう、どんなにがんばっても、無理なんだ、本、読めないんだよ。
 雨が降るなか、私を見送り、帰って行ったかれの後ろ姿が、黄太寿に重なる。他者には知りえない物悲しさを両肩に乗せた背である。私の友人は悲劇的なのだろうか。おそらくちがう。悲劇というほどのことではない。かれのような人物は多い。そうめずらしいことでもない。かれは自身のみじめな境遇に酔っていた。陰気な愉しみが見え隠れしていた。しかし、黄太寿は憎らしいことに悲劇的である。在日朝鮮人であるがゆえに、悲劇的である。私にはそれが許せない。在日朝鮮人であるにもかかわらず、在日朝鮮人を乖離させ、際立たせ、特異な存在に祀り上げてどうする。人間であることに変わりはない。