ツメノめ

本内容は「せいじん」を対象とし、一部過激な思想、表現を用いています。

アーサー・C・クラーク 著『幼年期の終わり』書評Ⅰ

f:id:nekonotsume:20200524050349j:plain

読みやすさ:9
おもしろさ8
意味ぶかさ:6
※10点満点での評価※

 


 ポール・ゴーギャンの大作に『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』がある。
 題からして深遠である。そこには、あらゆる生物の普遍にして巨大な謎が横たわっており、また人類が未知へ発する最大の問いかけが示されている。この題は色褪せることを知らない。いまなお燦然と輝いている。なぜというに、われわれはこの世界に存在していながらも、いや、この世界に存在してしまっているがゆえに、いまだに未知からの返答を正面切って頂戴することができないでいるからだ。とはいえ、色褪せず、輝きつづけているのは、題だけではもちろんない。絵画も負けず劣らず不朽である。
 この絵画は、右側に瑞々しく太った
乳児がおり、左側に萎びて肌の潤いをなくした老人がいる。そして中央の、やや右寄りに生気の光を帯びた青年が天へ祈りを捧げるように腕を伸ばし、果実を手にしている。この三人が絵画の主たる象徴であろう。乳児は〈生〉を、老人は〈死〉を想起させ、青年は、果実を手にしていることから、西欧的見地から立って眺めると禁断の果実を手にしているようにも映り、人間を人間たらしめる〈知〉の獲得を想起させる。ミクロな視点(個の観点)でもマクロな視点(群の観点)でも観察に耐えられる強度を有しており、人間の一生の普遍的な流動を右から左へと形成している。かといって、この三人だけが絵画に描かれているわけではなく、ほかにも九名の人物と、六匹の動物が描かれている。九名の人物のほとんどは女性であり、六匹の動物はそれぞれ犬、山羊、猫、マガモ、アヒルである。当たりまえだが、ひとつひとつに〈生〉と〈死〉と〈知〉に連関した意味が宿っている。
 この絵画の不朽たる所以は、そこであろう。問いかけの具現化および、ゴーギャンが主観において捉えた未知からの返答の一側面――一糸といってもいい――が全画面に横溢している。それが古今東西の〈読み手〉たちの飽くなき好奇心を刺激し、魅了するのだ。
 このように、未知からの返答の一糸を主観的解釈をもって手繰り寄せ、作品とし、人類に多少なりとも貢献したのは、人類史上においてゴーギャンひとりということは決してない。ほかにも多くの芸術家がいる。そのなかのひとりに、
アーサー・C・クラークもいる。
 かれの『幼年期の終わり』は、『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』よりも優れているといえる。〈読み手〉が理解しやすく、また人類の起点と終点にたいして、ひとつの明瞭なこたえがあるかもしれない可能性(あるいは希望?)を
示唆しているからだ。それは文字通りの意味での神の視点さながら、明快かつ単純、さらには偏狭な者を揺さぶる、『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』よりもマクロな視点であるために、かえって未知からの返答そのものだと信じられてしまいそうなほどだ。じっさい、日頃小説に親しまない者こそ、本書は「目から鱗が落ちる」といった現象に陥りやすいかもしれない。
 が、一方で、明快であろう、単純であろうとしたために、アーサーは、意識的にか無意識的にか、妥協したのも事実である。普遍にして深遠な謎そのものを具象化するために抽象を切り刻み、『幼年期の終わり』を、ゴーギャン同様、超越者の存在を明らかにし、キリスト教的、あまりにキリスト教的な方向へ寄せてしまった。
 ここまで露骨に、ゴーギャン以上に、キリスト教的具象化を施してしまっては、芸術家として、アーサーが行ったことは、二流三流の所業のように映る。しかし、私は批判しない。するつもりもない。それでもなお、残念なことに、沼正三三島由紀夫が賞讃したように、本書は名著なのだ。
 万人が読め、理解しやすい。それに、これはあくまでひとつの仮説に過ぎない――ひとつの〈ものの捉え方〉を超えていないのだから。