ツメノめ

本内容は「せいじん」を対象とし、一部過激な思想、表現を用いています。

広津和郎 著『神経病時代』書評Ⅱ

f:id:nekonotsume:20200607051656j:plain

読みやすさ:5
おもしろさ5
意味ぶかさ:6
※10点満点での評価※

 

 


 昨今、巷で「本好き」や「文学好き」を、公然と自慢気に語る、たいていの者たちが、太宰治に愛好の念を抱き、自らを重ねて悦に浸っているように、本作品に登場する遠山もまた、マルメラードフに並々ならぬ親しみを抱き、自らを重ね、浸っている。かれは、友人たちとの飲みの席で、さも自身が、自身だけが、マルメラードフの辛苦に、本質に触れているかのように振舞う。

「いや、君には解らないんだ」遠山は椅子から立ち上つて、手を振りながら叫んでゐた。「俺は生活を恐れてはゐない。俺は生活なんていふものを輕蔑してゐる。俺は唯ひとつの物をしか求めてはゐない。この生活上のいろいろなものはみんな消えてしまつたつて、俺には恐ろしくとも何ともないんだ。『我らが求むるものは唯一つのみ』――その通りだ。俺たちにほんとに必要なものは唯ひとつのみだ」
「そしてそれが君には酒なんだ!」と相川が叫んだ。
「何だと? 貴樣は俺を輕蔑しているな。貴樣に一體何が解る? いいか。貴樣には人間の表面しか解らない。俺が少し酒を飮む。と直ぐ人類の秩序が亂れると拔し居る。貴樣のやうな小僧つ子の案出した秩序によつてこの人生を一つの型の中に極めつけられて堪るものか。が、待てよ、さうだ、ドストエフスキイだ。ドストエフスキイはもつと人生を見てゐるぞ。『罪と罰』の中に出て來る老官吏――ああ、何といふ名だつけかな? ……畜生、俺は頭がどうかしてゐるぞ、何と云つたつけかな、あの老官吏の名は?」
「君の云うのはマルメラドフだらう」と相川が云った。
「ああ、さうだ、マルメラスキイだ、ドストエフスキイがそのマルメラスキイを描寫した……」
マルメラスキイぢゃない、マルメラドフだよ」
「何方だつて同じだ。露西亞人の名は大槪似たやうなものだ。……ドストエフスキイマルメラスキイを描寫した態度を考へて見ろ。ほんとにドストエフスキイはよくあの男の心を理解してゐるぞ。あの老官吏が女房のものでも何でもみんな酒にして飮んでしまつて、而も心から妻子を愛してゐる氣持をドストエフスキイはよく理解してゐるぞ。そこが彼の偉大な所以なんだ」

 遠山はマルメラードフの視点に立って、一小説家としての、一観察者としての、ドストエフスキーを好意的に評価している。かんぜんにマルメラードフになりきっている。著者の、マルメラードフの創造主の、ドストエフスキーですら、じぶんの真髄に近づきこそすれ、達しなかったといわんばかりである。しかし、このようにマルメラードフに自らを重ねているのは、遠山だけではないようだ。金石範の『往生異聞』に登場する黄太寿もマルメラードフに染まっている。

《彼はカストリを飲み干して、おうい、おやじさんよ、もう一杯お代りだ、いや、二杯だ、きみもぐいっとあけろ、うふふふん、よろしい、よろしい。相伍君、これが分かるか、ううむ、このコップの底にあるものが何か、きみは知ってるかね? 酒だ、ここにあるのは酒だろ、え、ここには酒がある。いったい、この酒はなんなのだ。この酒がおれを楽しませてくれるときみは思っとるんか。はっはっはあ、違う、ノー、ノーだ。分かるまい、分かるまい、このコップの底にあるのは悲しみだ。おれはコップの底に、いや、酒瓶の底に楽しみではなく、苦しみと悲しみを求めて飲む。うっふっふっふ、これはマルメラードフのセリフだぞ、素晴らしいセリフだ。ああ、コップの底に悲しみと苦しみを求めて飲む……。酒はおれを楽しませてくれはしないんだ、あっはっはっは、やがてマルメラードフならぬ黄太寿のセリフが終わる》

 酒飲み――それもアルコール中毒といっても過言ではない重度の酒飲み――にとっては、マルメラードフは一種の象徴であり、あこがれであるらしい。たしかに、すべてを酒につぎこみ、人生を台無しにしてもなお止められず、一心不乱に酔いつづけ、やがては壮絶な観念論を熱っぽくふるって、みじめたらしく死んでいったマルメラードフは、他者の脳裏に痕を残すような生き様ではある。飲酒愛好家であれば、酒に捧げる破滅的なマルメラードフの人生には感じ入るものがなくはないのかもしれない。が、遠山にしろ、黄にしろ、模倣するのはいかがなものであろう。黄太寿はまだいい。かれはじっさい、のっぴきならぬ境遇に陥り、やがてマルメラードフ以上に凄惨な最期を迎える途上で一滴の慰みとしてマルメラードフを意識するが、遠山はというと、いくらでも転機が設置されており、望めばたやすく脱け出せるにもかかわらず、マルメラードフの思想にあてられ、かれと同様の人生を送ることこそ、じぶんの至高の人生の道筋だと勘違いしてしまっている。酒ばかりでなく、人生そのものにおいても、ある意味で酔っているのだ。相川が指摘した通り、おそらく、本当のマルメラードフの辛苦を遠山は知るまい。マルメラードフの悲劇的一面ばかりを強調、形骸化し、その形骸をまとって、じぶんが悲劇の主役であるかのように演じていることに恍惚とし、同時に満足しているのだ。その証拠に、前述の引用箇所にもみられたが、名前を堂々と間違えているではないか。くわえて、かれはとくにマルメラードフのように死ぬこともなかった。あくまで、模倣――それも中途半端な模倣をいたく気に入っているのである。この中途半端なマルメラードフの模倣によって成り立っている遠山を傍観する立場にある者がまじまじと観察したらどのような気持を抱くだろう。けっして好意的なものでないにちがいない。ある者にとっては、嫌悪すべき対象であろう。いささか空疎なのだ。だが、私は遠山の生き方に否定的ではない。かれは模倣することによって悲劇の主人公という役を演じ、その役を演じることで人生を愉しんでいる。他者に迷惑をかけているところは賛同できないが、しかし、人生を愉しむのは悪いことではない。主人公の鈴本にしろ、仲間の相川にしろ、河野にしろ、遠山以上にめぐまれた境遇なのに、そこに満足できず、人生を愉しめていない者だっているのだ。それに比べれば、である。また、世のなか、遠山のような人物は多い。埋められない人生の穴を模倣という手段を駆使して巧みに塞ぐ――すなわち、憧憬の人物を形骸化してまとい、ごまかす者たち(コスプレイヤーがその一典型であろうし、太宰治を愛好する者たちもまた一例としてあつかえるのではないだろうか)。かれらが圧倒的多数派であるのに、どうして否定することができよう。私も、意識していないだけで、じつは遠山であるかもしれないのだ。
 アルコール中毒にあこがれの気持を抱かせてしまうマルメラードフを描写したドストエフスキーのように、広津和郎も、現代人の芯に響く一典型を生んだ。見事な描写力である。模倣者の心理をよく理解している。しかし、つづけて、私は遠山のように「偉大な所以なのだ」と軽々しく書きはしない。こう書く。父、柳浪の面影を感じずにはいられない。