島尾敏雄 著『贋学生』評Ⅰ
* 夢
島尾敏雄の世間一般的な代表作と目されているのはおそらく、『死の棘』であろう。
この作品のみが現状、かれの作品群のなかで唯一新刊書店にて購入できる作品であるからだ。
しかし、そうかといって、島尾敏雄は『死の棘』さえ読めば、かれ特有の作品世界に共通する雰囲気がおおよそ掴めるだろうと考えるのは早計である。むしろ、『死の棘』はおすすめしない。せめて、本書を読むべきである――
とまあ、こう書き出してみたわけだが、なんとも凡庸な書き出しである。このあとつづく文はどうせ『贋学生』の内容について触れ、いかに『死の棘』がかれにとっての異端作であるか、本来のかれの作品に横溢する淡くも深い夢幻な香りはどんなに他の作家にくらべ風変わりで、すばらしいかを述べ立てるのが関の山であろう。なんて、くだらない。読む方もツマラナイだろう。書いている身としても、じつに面白みがない。こんなことをつらつらと書きたいのではない。それに、こんな紋切型じみたやり方では、『贋学生』の……? 島尾敏雄の……? 魅力が伝えられない。
ン……?
まぎれもなく、これは『贋学生』の書評である。『贋学生』への観方を示そうとしている。島尾敏雄じゃない。島尾敏雄の魅力?
たしかに『贋学生』の書き手は島尾敏雄であるから、この場合、そのものの魅力となると、島尾敏雄でもよいはずである。しかし、『贋学生』には〈私〉と毛利と木乃がいて、かれらとその周辺が織り成す奇妙にこじれていく人間関係が醍醐味であり、そこの魅力をつたえるにあたって、島尾敏雄の出る幕はない。いや、しかし、けれども――ン……? ン……?
あてどなくつづく、大して進歩のない混沌とした思考。
本書の書評をカタチ作るまえ、ずっとこのような意味のあるようでない、えんえんと、とりとめのない乱れた文が頭のなかで無数に生い茂った。それもシソ科の植物のようにしつこく、なかなか除去することはかないそうになかった。だから、あっさりと観念して放っておき、生えるに任せ、そのまま倦怠気味に書き起こしてしまった次第である。
書き起こしたことで、なにか収穫はあったか? みてのとおりである。収穫がありそうにみえるだろうか。あるわけがない。不毛である。はじめからなにもなかった――つまり白紙とそう変わらない文の連なりである。しかし、まったくもって無駄とはいえない。白紙よりかは多少限定的であり、あいかわらず、抽象ではあるものの、いくらか、ほんのわずかに具象へ傾いてはいるからだ。
このちっぽけな具象と厖大な抽象のどちらかに、顕微鏡あるいは望遠鏡を用いるのでなく、それらをそのままにして眺めやることが、『贋学生』ないしは島尾敏雄の本質をもっとも的確にあらわせているのではないかと考え、にわかにそうであることを期待している。
というのも、島尾敏雄自身、評するに困惑する人物である。これは小島信夫にも当てはまる。かれらは枠に囚われていないのである。戦争小説と類される作品を書き、いっぽうで私小説と類される作品も書いた。くわえて、夢――はたして夢と表現してよいのだろうか? といって、超現実とも、シュルレアリスムとも表したくはない――小説も手がけた。……自在にさまざまなジャンルに手を染めたから、枠を囚われていないのだと述べるつもりはない。そんなことをしているのはなにもふたりだけに限らないだろう。そうではない。これら――戦争小説、私小説、夢小説――には、小説であるにもかかわらず、小説らしさが希薄なのである。「これは小説だ」という書き手の意気込みが作品になく、手段としての小説、なにかを得るための足掛かりとして、道具として、たまたま小説というものがあった、という気配が満ちているのである。
なにを得たかったのかといえば、それはすなわち、夢の探求――これは、正確ではない。硬質な非世界(腐蝕した現世界の対義語としての意味での)の片道切符的狂奔的行進による、自意識をともなっての死であろう。ゆえに、かれらは書くことに意味をもとめなかった。さらには、かれらの脳裏に刻まれた夢にこたえを見出さなかった。〈行為〉に、すべての意味を詰めこんだ。
従軍経験のあるかれらは、現世界にて、死に魂を撫でられ、どこか欠損してしまったとしか思えない――
……はて『贋学生』は?
なぜ、島尾敏雄だけでなく、小島信夫も出てきた?
睡眠と覚醒の狭間にある、無意識と有意識の移ろいじみてきた。
もうやめよう。これ以上書いてもどうにもならない。
せめて、混沌としたなかに、閃くような『贋学生』の核あるいは島尾敏雄の陰を写し取りたかったのだが……といいつつも、捉えようとすると脆くも溶け落ちていく、意味を掴みとる寸前であたかもはじめからなかったかのように失われてしまう感じが、島尾敏雄には……? 『贋学生』には……? よく似合う。