夢の島=吸殻の山

本内容は「せいじん」を対象としています。

広津和郎 著『神経病時代』評Ⅰ

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* 都会の憂鬱

 
 主人公の鈴本定吉は、ことごとくうまくいっていない。
 仕事では望んでもいない雑務を背負わされ、給仕には嘗められ、さらには、しくじり、社の仲間はずれにされる。家庭ではヒステリックな妻に苛まれ、言い争いや喧嘩が絶えない。親しい友人たちは一方的な頼みごとばかりである。
 かれは不幸だろうか。不幸にちがいない。
尾張町の停留場に來て彼は佇んだ。そのまま電車に乘つて歸る氣にはなれなかつた。と云って彼は別段何處にも行くめあてはなかつた。彼はカツフエ・ライオンの壁に凭れながら、幾臺も幾臺もの電車をやり過した。彼の眼は前方を見つめてゐた。が、別段何をも見てゐるのではなかつた。ただ都會のいろいろの灯が混り合つて、ぼうつと一つの塊になりながら、彼の眼に映つてゐるに過ぎなかった。――彼はぼんやり社の事だの家庭の事だのを考へてゐた。が、さういふものがみんな自分に親しみのない、適さないもののやうに思はれて來た。》
 この文に表れているとおり、かれにはどこにも居場所がないのだ。
 しかし、かれは憐れむ対象ではない。このようになってしまったのは、だれのせいでもない、かれ自身のせいなのである。
 かれは、これといった趣味がなく、情熱を傾けられる事柄もなく、日々を流れ作業のように生きている。意思が弱く、あらゆる場面で自己主張をしない。角が立たないように生きようとする。だから、社に、妻に、友人に、いいようにあつかわれる。とはいえ、無自覚ではない。この状況の原因はじぶんであることを重々承知している。が、改善しようとする気持はある一方で、具体的な行動には億劫で移れない。「だれか、なんとかしてくれないかなあ」という他力本願かつ空疎な思いを胸に秘めるだけである。もちろん、思うだけではなにも好転しはしない。まわりは知ったことではないとでもいうふうに、かれへ容赦のない忍耐を強い、健全な精神を削っていく。かれの空疎な思いはますます募る。「さうだ、俺見たやうな人間はこんな風な生活をしてゐる事は間違つてゐるんだ」「ああ、田舎に行きたいな。何處か静かな田舎に。そして本を讀まう。トルストイを讀まう。自分はやつぱり一番トルストイから敎へられる……」《彼は東京で生れて東京で育つた。實際のところ、彼は田舎には三日か四日しか行った事はなかつた。だから、彼の云ふ田舎がどこに行つたらあるのか見當はつかなかつた。けれども、彼の想像した田舎は美しかつた……そこには小川が流れてゐた。彼はそこで釣絲を垂れる事が出來た。そこには森があつた。彼はそこで小鳥を擊つ事が出來た。そこには廣い畑があつた。彼はそこを散歩する事が出來た。そして人情が醇朴で、みんなが彼を尊敬した。さうだ、彼はいつの間にかそこで小學校の敎師になつてゐるのであつた。彼は子供たちにトルストイのお伽話をはなして聞かせるのである。すると子供たちは、みんな嬉々として彼になづく。子供たちの祖父や祖母である爺さんや婆さんが、大根だの胡瓜だのを、彼の家の緣側に持つて來ては置いて行つて呉れる。》……
 現実世界における資本主義的生活と空想世界における自然主義的生活の抜き差しならぬ対立は、やがてひずみを生む。そこで、両極に属さない霊長類ヒト科に本来備えつけられた魂の発露――狂気が漏れ出る。
《「何のために、何のために?」と定吉は腹の中で考へた。「みんながみんな、意見を持つてゐないのだ。巡査も、あの馬で以つて群衆の中を動きまわつてゐる騎馬巡査も、それからあの演壇に立つてゐる男も、(それは賣名のために貴族院議員の位置を擲つて、首相を攻擊してゐる男であつた)何がほんとに正しくて、何が正しくないかを實際は少しも知りはしないのだ」》
 いよいよ狂気がふくらみ、生活を逸脱した〈人〉に成りかけるところで、資本主義的生活が狂気と自然主義的生活へ決定的な打撃をあたえ、勝る。かれは昏倒、粉砕、虚脱し、無残に呑まれる。
 その結末を目の当たりにするとき、読者は一様の思いには至るまい。かれは、かれの結末は、読む者に――とくに社会人に――さまざまな印象を抱かせるだろう。
 鈴本定吉は、広津和郎が読者に向けてこしらえた、ひとつの〈鏡〉なのだ。
 ゆえに、自然主義的生活が資本主義的生活に打ち勝り、叶ったとしても、やはりかれは、空想から現実に転化した新たな生活に呑まれたにちがいなく、ふたたびの不幸せのはじまり――『田園の憂鬱』の〈彼〉になったはずである。