ツメノめ

本内容は「せいじん」を対象とし、一部過激な思想、表現を用いています。

サマセット・モーム 著『月と六ペンス』書評Ⅱ

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読みやすさ:8
おもしろさ8
意味ぶかさ:8
※10点満点での評価※

 


 ルネ・ブリュノについて語りたい。
 かれは、しがない船長であり、物語の後半において消息が掴めなくなったチャールズ・ストリックランドを知る人物として本書に登場する。そのとき、その場面だけの登場である。大した人物としてはとり上げられていない。これといった活躍のないまま、物語から退場させられている。
 しかし、個人的には、かれが、いやかれこそが、至高の芸術家であると信じて疑わない。
 主要にあつかわれているチャールズや〈私〉は、正直いって、ルネ以下の片輪の芸術家である。ルネはすさまじい。
 記述によると、かれは創作活動として、フランスの友人から金を借り、パウモツ諸島の無人島をひとつ買って、開拓を行った。もちろん、購入した島はあらかじめ整備されてもいなければ、肥沃な土地というわけでもなかった。深いラグーンを取り巻く環状で、灌木と野生のグアバが生えているだけであった。そこにルネは妻と数人の現地人をひき連れ、家を建て、灌木を払い、ココヤシを植えた。そして長い歳月をかけて、不毛だった島を庭園に化かせしめたのである。〈私〉の筆によると、これ以上のことは書かれていないが、きっと、かれはこの文量以上のことを成してきただろう。さまざまなことをしてきたはずである。家の塗装は何色にすべきか。どの材木を使用するか。間取りはどうするか。自然物をどのように整えるか。灌木はどこまで払うか。どういった位置で、あるいはどのぐらいの間隔でココヤシを植えるか。またどのように生長させるか。椅子はどのような形状のものを作るか。机はどんな大きさにすべきか。ベッドは備えるべきか、それともハンモックにすべきか。花は自然から採取すべきか、仮にそうした場合、どういうふうに植えなおしていくか。――創作の余地は至るところにあり、途方もない。完成させるのは、至難の業である。悪魔の力を存分に借りたファウストですら、完成にたどり着くことなく、死んでしまった。しかし、ルネはやり遂げた。エイハブ船長が、ネモ船長が、敵わなかった〈自然〉へ勇猛果敢に挑み、屈服させたばかりか、なおそれを芸術作品へと昇華させた。それも、他者と〈美〉を共有し、生活そのものにも影響をもたらすことのできる、自己と他者の平衡が完全に調和した最高の芸術作品である。これほどまでの作品を生み出すことのできる芸術家がいようか。
 だが、〈私〉の目は冷ややかである。〈私〉は欠陥品のほうがお好みなのだ。小癪な筆を巧みに操り、ルネを露骨に歪め、チャールズの魅力を際立たせるための陰翳として描く。どうやら〈私〉はルネをチャールズの対極へ置きたいらしい。たしかに、その企みはいくらか成功している。しかし、大衆の目からルネの正体を完全に隠しおおせたわけではない。歪めても、ルネの偉大さが消えることはない。
 まず、〈私〉はルネに「あいつ(チャールズ)は道具に絵の具を使ったが、おれは人生を使った」と語らせているが、似合わない発言だ。本来のルネならこう語っただろう。
「あいつは道具に絵の具を使ったが、おれはあらゆるものを使った。なにもかもを使った」
 ついで〈私〉はルネに「美を創造したと思いたい」とも言わせている。
 これは謙虚な姿勢を感じさせるが、チャールズを意識しての発言であるから、それを考慮すると謙虚を通り越していささか卑屈である。なぜというに、二十年かけて自然を人工物へと変貌させることに専念した男なのだ。並々ならぬ情熱と忍耐と努力を傾けたことのある者が、たかだか数年の努力しかしていない創作者にたいしてこんな弱腰な態度をとるものだろうか。
 くわえて、二十年におよぶ創造を支えたものはなにかという問いに対し、「神への信仰だ。これなしでは、たぶんくじけていた」というルネのことばがある。
 神や自然に抗い、庭園を自らの手で創造したというのに、なんと奇妙なことを言いだすのだろう。神への信仰とあるが、神をもっとも冒涜している。かれは局地的にではあれ、神に勝利した男である。
 これらはルネが正確に語ったところではないだろう。〈私〉の筆によるものにちがいない。
 とはいえ、すべてがすべて歪められてはいない。〈私〉にも良心はあったようだ。
 ルネが語ったとおりに、〈私〉が嘘偽りなく書き取った部分があるとすれば、以下である。

〈私〉「フランスやブルターニュが懐かしくありませんか」
ルネ「いつか帰るかもしれん。娘が結婚して、息子に嫁が来て、島を引き継いでくれたら……そうしたら妻と二人、おれの生家で最後の日々を送るかもしれん」
〈私〉「そして、幸せだった一生を振り返る……ですか」
ルネ「もちろん。島の生活は胸躍るわけではない。世界からも遠く離れている。なにしろ、タヒチに来るだけでも四日かかるんだ。だが、おれたちはあの島で幸せだ。何かを思い立ち、それを実現するなど、そうそう誰にでもできることではなかろう。島の生活は単純で素朴。世間的な野心とは無縁だし、誇れるものは、島で成し遂げた仕事しかない。だが、他人の悪意とも無縁だ。妬みの攻撃にさらされることもない。なあ、君、世間では労働の喜びと言うだろう? 一般的には無意味な決まり文句だ。だが、おれは違うぞ。意味がはちきれそうに詰まっている。そう、おれは幸せな男だ」

 ルネ・ブリュノは、私の憧れである。