ツメノめ

本内容は「せいじん」を対象とし、一部過激な思想、表現を用いています。

サマセット・モーム 著『月と六ペンス』書評Ⅰ

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読みやすさ:8
おもしろさ8
意味ぶかさ:8
※10点満点での評価※

 


 ごく私的なところからはじめようと思う。
 かつて一丁前にもの書きを志していた頃、恩師からいわれたことばがある。
「〈文学〉がしたいのか、〈勝負〉がしたいのか」
 このことばは、当時つよく響くことがなかった。
 とにかく、どちらだろうと構わない、なにかしら賞さえ取れればそれでいい、そこからじぶんの人生がようやく始まると、よく理解もせずに、若者特有の無鉄砲さでいなし、ものを書くことが飯のタネになるように、じぶんは特別な人間なんだと思いこめるように、自信過剰な心持をぶら下げ、がむしゃらにやっていた。が、とうぜん、それは功を奏するはずもなく、粗野な青春の身勝手な暴発に過ぎないことにあるとき、気付いた。いつの間にか、ものを書くということにたいして、息苦しさを感じていたのだった。
 好きなことをとことんしている気でいた。しかし、本当に好きで純粋な動機で書いていたのは、はじめの頃だけだった。最低な人生から脱し、もの書きとして成り上がるために妥協に妥協を重ね、幸か不幸か、先輩小説家や編集者といった、まわりの者たちが助言や方針を示してくれたこともあって、それにしたがい、自然と〈勝負〉へ傾き、名声を勝ち取ろうと、書きたくもないものを書きつづけるようになっていた。
 他者の慰みものになることがすべてであり、じぶんの意思は二の次だった。
 次第に失速していく意欲に反して、実力はついてきた。おそらく、まわりの者は、いよいよだと思ったのかもしれない。だが、助言や方針を示してくれた者たちの期待に応えることはできなかった。すでに限界だった。ぽっきりと折れた。
 書くことをやめて、ふと世俗に浮上して、ふつうの人生を選択した者たちとじぶんとの乖離に、いまさらのように驚き、とっさに軽蔑してしまう一方で、嫉妬した。うらやましかった。かれらかのじょらは楽しそうだった。じぶんはそうでなかった。こころは満ちるどころか、カラッポだった。何のために、ふつうの豊かな人生を投げ捨ててまで、やってきたのだろう? と疑問が湧いた。好きなことを仕事にするためではなかったか? だが、好きは遠ざかってしまった。じぶんには、もはやなにも残らなかった。長い月日だけが過ぎていた。
何のために?……何のために?……
 それからしばらくしてである。恩師のことばをたびたび思い出しては、反芻するようになった。
「〈文学〉がしたいのか、〈勝負〉がしたいのか」
 いまとなっては、とても心に響くことばである。
 人生において目標をもつのは大切なことだが、信念をもつのはそれ以上に大切だ。
 芸術は他者があって成り立つ。ゆえに、つねに他者が自身の創作物にズケズケと介入し、その良し悪しの評価を下す。あたりまえのことである。古代ギリシャにおいて『詩論』を提出したホラーティウスでさえ「読者をたのしませながら教え、快と益を混ぜ合わせる者が、万人の票を獲得する」と語っている。しかし、それが芸術のすべてだと錯覚してはいけない。創作の占める割合として、自己と他者のどちらを優先させるかの平衡を見極めるのを忘れてはならない。それが創作者にとっての、ここぞというときの信念になる。
 その好例として、『月と六ペンス』のチャールズ・ストリックランドがいる。
 かれは四十歳になって、とつぜん会社をやめ、妻とこどもを捨て、絵画をはじめる。
 まさしく、語り手の〈私〉の筆によると、とつぜんといった感じで、死後に天才と称されるような
変人の片鱗を垣間見せるかのように描かれている。しかし、かれだって人間だ。それもどこにだっている人間である。かれにとってはとつぜんではない。それなりの動機があって、すべてを投げ出し、絵画の世界にのめった。その主な動機というのは、妻であろう。妻は俗世間的な人物である。夫を快く想ってはいるが、無意識下では退屈の情があり、名声や刺激をもとめて文壇のひとびとと交流している。浮気や不倫といった類ではないが、業界人をパーティに招くのはやはりチャールズに〈男性性〉による魅力を感じ取れないからだろう。それをそこはかとなく察知し、耐えに耐え、〈私〉と対面したパーティを機に吹っ切れたにちがいない。おそらく以前より関心が強かったであろう絵画を選択して、その道を行くことにより、自らの〈男性性〉をとり戻す決心をしたに過ぎない。だからこそ、絵画の道の途についてからは、会社員時代の態度とはうって変わって、頑固、偏屈、皮肉屋、粗野といった性質が露わになり、あげくは知人の妻を寝取り、十代の女に手を出すまでに至る。
以上を鑑みると、絵画の道に没入した動機は平凡の枠を脱け出はしないだろう。ただひとつ、まわりの人間たちと違えるものがあるとすれば、それは絵を描く理由である。チャールズはいう。
「何が何でも描かねばならん」
 平易でありながら、破滅的熱情(あるいは狂気)がこもったことばである。
 文字通りなのだ。かれはどんなことがあっても働かない。生活を豊かにしようと考えない。生命維持が危うくなっても気にしない。名声をもとめない。評価をほしがらない。何であれば、絵にすら関心がない。かれにとっては〈描く〉ことがすべてなのだ。異様である。完成した自身の創作物に興味がなく、
他者の介在をも一切許さないのだから、それはもはや、自慰であるといっていい。芸術ではない。
 じっさい、絵は巧みではなかった。美とは、ほど遠かった。唯一、チャールズの絵を絶賛し、心酔した人物にダーク・ストルーブがいるが、かれはチャールズの絵を精確な審美眼で評価してはいない。かれはチャールズよりも世間的に売れている画家なのだ。そんなかれが、チャールズの絵を絶賛し、心酔し、じぶんの創作活動をないがしろにしてまでチャールズに尽くすようになったのはひとえに、絵そのものに魅せられたからではなく、チャールズ本人の根底にあった気質(絵を描く以前の気質)と共鳴してしまったからだろう。かれは、〈男性性〉を獲得しようともがくチャールズをみて、ふるえずにはいられない。ダークもまた〈男性性〉を喪失してしまった人物なのだ。かれもチャールズに感化され、〈男性性〉の獲得を試みるが、チャールズとはちがって、現在の生活を放棄して自慰に耽ることによってではなく、支援による他者(チャールズ)の出世によって自身の〈男性性〉を復興しようと試みた。ゆえにチャールズはかれを軽蔑する。じぶんをうまく利用しようとするこころがあることをよく知っていたのである。
 生活を放棄し、妻子を放棄し、芸術をも放棄した、超然たるチャールズの自慰はなにをもたらすか。放埓的快楽により呼び起こされる〈男性性〉だろうか。否である。そもそもかれの自慰には、宗教的受難にあるような辛苦をともなった禁欲的雰囲気が充溢している。くわえて、かれは〈男性性〉を獲得したあとも、その自慰をやめない。かれには自慰によって達すべき目標があった。それは、「ないものを得る」、「形にできないものを形にする」といった、すなわち〈男性性〉を行使して〈神の創造〉を自らの手で行い、無を有に転化すると同時に支配し、〈男性性〉ならではの、最大にして最高の悦びを感得するという、究極の自己満足に到達するといった目標であった。
 かれはフランスを去り、タヒチに漂着しても変わらず、その目標のために自慰をつづける。そして、見事達する。〈私〉や読者は物語の終わり近くで、それを目の当たりにすることとなる。しかし、かれは達してなにを感じ、なにを思ったかを知る術はないだろう。
 かれは自慰者ではあれ、芸術家ではないのだ。他者に伝えるためでなく、自己を満足させるために描いていた。だが死後、自慰の凄まじさに、大衆がかれを芸術家として認め、かれの遺した作品を芸術作品として仰ぎ見る。
 どうだろう。パラドックスじみてはいないだろうか。
「〈文学〉がしたいのか、〈勝負〉がしたいのか」
 どちらかが優れ、どちらかが劣るということはない。重要なのは、どちらに心を定めるか。
 私はいま、〈文学〉を成したチャールズに、泣きたくなるような笑いたくなるような気持を抱いている。