夢の島=吸殻の山

本内容は「せいじん」を対象としています。

折口信夫 著『反省の文学源氏物語』評Ⅱ

f:id:nekonotsume:20200422191137j:plain

* 神ともののけ

 
 平安時代あたりに出現した伝説のひとつに、『安珍清姫伝説』というのがある。
 和歌山県最古の寺である道成寺にまつわる伝説である。
 とうぜん、伝説であるため、同じ話でも伝承による相違が少なからずあるが、それはさておき、おおよその内容の筋としては次のようになっている。

 あるとき、熊野へ参詣にきた、たいへん美形な僧、安珍という者がいた。
 真砂の庄司清次の娘である清姫は、かれの姿を見、恋をした。
 宿を借り、泊っている安珍のもとへ清姫は赴き、女であるにもかかわらず、夜這いをかけようとした。
 参拝中の身であるため、そのように迫られては困る、参拝後にきっと立ち寄る、と安珍
 その言葉を信じた清姫
 しかし、かれは参拝後、立ち寄ることなく、帰途へつく。
 帰途についた安珍を風の便りで知った清姫は、なにかの間違いかもしれないと思い、急ぎ、かれの後を追った。
 道成寺までの道の途中でようやく清姫安珍に追いつく。
 しかし、安珍は再会をよろこばなかった。
 じぶんは安珍ではないと嘘をつき、あげく、熊野権現に助けをもとめ、清姫を金縛りにして逃げ出した。
 この安珍の仕打ちに、清姫は激怒し、大蛇に変身、逃げる安珍をさらに追跡する。
 川をわたり、やっとの思いで安珍道成寺にたどり着くも、大蛇になった清姫の追跡の手が緩むはずもなく、かれは仲間に頼んで梵鐘を下ろしてもらい、そこに身をひそめることにした。
 その梵鐘に巻きつく清姫
 かのじょは口から炎を吐きに吐き、梵鐘は赤熱。
 中にいる安珍はとうとう焼け死んでしまった。
 その後、清姫もまた、入水し、命を絶った。

 この伝説は、物語そのものが魅力というわけではない。
 相違にこそ、魅力が秘められている。
 相違といっても、伝説なのだから、さまざまである。まず人物たちの名である。安珍という名は鎌倉時代に著された仏教通史書元亨釈書』から、清姫という名は江戸時代の浄瑠璃道成寺現在蛇鱗』から登場している。以前は、これといった名がなかった。ついで、女の素性である。真砂の庄司清次の娘である場合もあれば、真砂の庄司清次の娵である場合もあり、寡婦である場合もある。ほかにも、ひとりの若僧(安珍)だけでなく、連れの老僧がいる場合もあり、夜這いに失敗した清姫(この話の場合、かのじょは寡婦である)が床でそのまま憤死し、そこから毒蛇があらわれ、安珍を追いかけ、ついには老僧ともども焼き殺す話もある。また、焼死した安珍と入水自殺した清姫畜生道に落ちて蛇として現世に転生し、道成寺の住職に供養を頼み、あの世で結ばれる話もあれば、じつは安珍熊野権現の化身、清姫が観世音菩薩の化身で、本来の姿にもどったという話もある。はたまた、清姫が蛇にも変身しなければ、安珍をも焼き殺さず、ひとり悲しみと怒りに包まれ、入水自殺する話もある。だが、これらはどれも些末である。相違ではあれ、この伝説がもつ魅力にはあたらない。
 では、どういった相違が『安珍清姫伝説』の最大の魅力になっているのかといえば――木を見て森を見ず。それはなんてことない、視点による相違である。『安珍清姫伝説』は、安珍視点の伝説の語られ方と、清姫視点の伝説の語られ方があるのだ。そして、安珍視点の受け取り方と、清姫視点の受け取り方もある。この視点のちがいによって、『安珍清姫伝説』は、逃れようとも逃れられぬ男の悪夢のような悲劇譚にもなれば、女の健気さが涙を誘う悲恋物語にもなる。つまり、安珍が〈神〉であった場合、清姫は〈もののけ〉であり、清姫が〈神〉であった場合、安珍は〈もののけ〉であるのだ。
 この〈神〉と〈もののけ〉の、不安定かつ、めまぐるしい変転が語るところはなにか。
 つまるところ、それは、今は昔(昔は今)、すべての〈神〉は〈もののけ〉であり、すべての〈もののけ〉は〈神〉であった。