アリストテレース 著『詩学』評
* 雑草の魅力
中等教育は、さして面白くもない。
そこいらに生えている雑草とそう変わらない。どれもこれも知的好奇心をくすぐるには縁遠く、目を愉しませることもなければ、鼻に心地好いわけでもない。何のために在るのかが、判然としないぐらいに地味である。といって、簡単に無視できるものでもない。それは、どこにでもある。どうしても目につく。ひと口にいって、うっとうしい存在である。学生であれば、なお顔をしかめずにはいられない。
世の中にはもっと面白いことで満ちている。雑草なんて観察せずとも――中等教育なんて受けずとも、漫画がある、映画がある、アニメがある、ゲームがある。そこにも学びはある。学ぶことのできる娯楽があふれているなかで、面白くもない地味な基礎をやることに何の面白みが見出せよう。
社会人は学生たちに中等教育を受けることの大切さ――雑草を観察することの重要性を、さも知ったような顔で滔々と説くが、その実、大半の社会人――なかでも、かの重要性をすすんで説きたがる社会人は、それがなぜ重要なのかを微塵も真には知っていない。じっさい、都市部の乗客の多い電車内を見渡してみるがいい。連中ときたら、右を見ても左を見ても、恥ずかしげもなく、一様に小さな画面に夢中になっている。かつての雑草観察はどこへやら。社会人ですら、自活ができるようになったそのときより、雑草観察――中等教育から解放されたと感じ、怠惰的な娯楽に耽っているのだから、学生がそれを熱心にやろうはずがない。
しかし、どうしてこうも、中等教育――雑草観察は面白くなく、嫌われ、疎んじられるのだろうか。おそらく、世にあふれる娯楽のせいで、「基礎=つまらない」の固定観念が出来あがってしまっているのかもしれない。
これはおかしな話である。つまらないはずがない。
ガリレオ・ガリレイなんて、太陽を中心に地球が回っていることを証明しようと必死に取り組み、結果、蔵書は焼かれ、あげくは軟禁という憂き目に遭った。
アルキメデスなんて、浮力による体積の求め方を発見して昂奮し、全裸で家を飛び出している。さらには、図形の問題に夢中になりすぎるあまり、兵士に殺されてしまった。
いずれも、かれらが没頭し、命がけで発見発表した事柄は、基礎である。中等教育で教わる。発見発表したかれらは見ての通り、生き生きとし、楽しそうである。だが一方で、現代の学生はその事柄を前にしても、まったく楽しんでいない。楽しむ気もない。この差は、命の危機が消失してしまっていることもあれば、基礎を発展させようとする意欲が欠如してしまっていることもあるのだろう。また、現代では基礎の量が厖大であるのも要因のひとつであるように思う。どんなに新鮮な光景に飢えている目であろうと、似たような光景をどっさり見せつけられたら、イヤでも食傷気味になる。とうぜん、ひとつの基礎をじっくり観察する気力も湧かず、内奥に隠された刺激にひっかからない。基礎への冒険は目立たない路地の陰に潜まれてしまった。
「別に話す何の種もないのに、子供に話すことを練習させようとし、学校の腰掛の上で、何人かに対して何事かを説得するという関心もないのに、情念の言語の精力や、説得の術の一切の力を彼らに感じさせようと思うのは、何たる無鉄砲な企図だろう。修辞学のすべての法則も、それを自分の利益のために応用したいと感じないものにとっては、単なる冗語にすぎない。ハンニバルがその兵士どもにアルプスを越える決意を抱かせるために何と言ったかを知ることが、学校児童にとって何の関係があるか。そんな物々しい演説の代わりに、諸君がどういう風にやれば、校長がうまい工合に休日を彼にくれる気になるかを言ってやれば、たしかに諸君の規則を、子供が傾聴することは請合いだ」といったルソーがもっともらしく感じられてくる。
学生は、基礎の多さに――雑草の多さに辟易とし、それらがもつひかえめな面白みにたどり着くことが困難となっている。ならば、社会人になってその面白さに至ればいい。社会人になってからが、中等教育を吸収する本番だ。
物語を読むのなら、作るのなら、その基礎をしっかりと得るために、最古の論理的創作指南書である『詩学』を手始めに、国語辞書の『言海』を愉しんだ、芥川龍之介のように、あるいは開高健のように、時間をかけて賞味すべきである。
むろん、雑草である以上、目立って特徴的な面白みは何一つない。しかし、凝視していると、その意味と深みに気付ける。雑草は広義の意味での雑草であるが、狭義の意味での雑草ではない。雑草といっても、雑草という名の雑草はひとつとしてなく、それぞれ違いがあり、種があり、性質があるというわけだ。
雑草が雑草でないと知覚できたとき、ようやく感じることができるだろう。
《じじつ、人が絵を見て感じるよろこびは、絵を見ると同時に、「これはかのものである」というふうに、描かれている個々のものが何であるかを学んだり、推論したりすることから生じる。人が実物を以前に見たことがない場合、絵がよろこびをあたえるとすれば、それは、絵が再現であるからでなく、仕上げの巧みさ、色彩、あるいはこれに類する他の原因によるものであろう》
約二千三百五十年の時空を超えて、『詩学』が、アリストテレースが、語りかけてくる、この何気ない文のーー何気ない葉の面白みを。