夢の島=吸殻の山

本内容は「せいじん」を対象としています。

大江健三郎 著『他人の足』評Ⅰ

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* ジオラマ

 
 二十代の頃の大江健三郎は、素人造形師の気持を折るほどに圧倒的な、非の打ちどころのないジオラマを多く作っている。どのジオラマも、手抜かりなく、建造物、内装、人物、雰囲気、配置のすべてが計算し尽くされ、その精巧さといったらバケモノじみている。
 かれのジオラマづくりにおける強みは、一目瞭然、どこまでも論理的であることだ。その強みの底には、常人にはマネできない尋常ならざる集中力が発揮されているのだろう。
 じっさい、本篇もその例に漏れずといったところである。むしろ、なんであれば、表題作になっている『死者の奢り』や『飼育』よりも精巧さに磨きがかかっているといっていい。
 まずもって、舞台環境である。
 海の近い高原に建てられた未成年者病棟となっている。現実的でありながら現実から隔離された幻想的な空間がとっさに脳裏を過ぎるばかりか、そこに清潔感もただよってくる。だが、舞台はきれいではあれ、環境はかならずしも、そうでない。棟内の様子を大江はよく「粘液質」という単語をつかって表現しており、またそこでは主人公含め治る見込みのほとんどない半身不随の少年少女たちが看護婦とともに暮らしているが、健全とはいい難く、食事、排泄、性的遊戯のみと、ゆるやかな頽廃的生活を送っているのである。空気が澱み、腐臭を放っていそうな雰囲気が上手に演出されている。とはいえ、じっさい、少年少女たちは腐敗していっているわけではない。ここが大江の巧みさが光る部分だが、少年少女たちはあくまで生殺しなのである。生かさず殺さずの精神で、停滞の状態を強要している。その役割を果たすのが、看護婦たちである。かのじょたちはジオラマにおける大江の忠実な下僕であり、かれの意思を未成年者病棟内で滞りなく反映させるために、環境を安定化させる働きを担っている。アクアリウムでいうところの濾過器や自動餌やり器のような存在だ。かのじょたちのおかげで、少年少女たちは何も為さない。自発的な行動は何一つとして起こさない。ただ、在るだけである。あらゆる欲求はかのじょたちが叶えるのだ。少年少女たちは病人なのだから、かのじょたちのその異様な母性愛的世話焼きに違和感は生じない。くわえて、個性をもった看護婦なんて登場しないことから、看護婦たちは一様に同じく映り、それによって棟の一部であるように感じ、棟そのものは母胎なのではないかという連想へと導く。
 うつくしく清潔感のある幻想性をはじめに提示しておきながら、その実、女性性を器用に挿入し、色気のある妖しげな幻想性へと、さりげなく昇華させているのである。
 そこへ、ふたつの構図が混じる。ひとつは、旧支配者と新支配者という構図である。
 これは古くから物語に使用される強力な構図のひとつであり、有名どころであれば、ソポクレスの『オイディプス王』にも、シェイクスピアの『ハムレット』や『マクベス』にも、ツルゲーネフの『父と子』にも、それが認められる。ほかにも古今東西の多くの作品がこの構図を使用している。理由は、いうまでもない。対立や闘争は残念なことにおもしろい。誰しもが物語に明確な目標を見出すことができ、世界観にたやすく傾き、ひたれるのである。最低限の普遍性と万人向けをあえて狙い、大江はこれを採用したのだろう。
 さらに、そこへ編まれるもうひとつの構図は、折口信夫が提唱した、貴種流離譚である。これでもって、本篇は日本文学らしい雰囲気を醸すことに成功している。とはいえ、正面切っての貴種流離譚ではない。大江の腕の冴えが感じられるところでもあるが、本篇はその一変種である。あえてひねりをくわえ、貴種流離譚をすこし外して表現している。つまり、主人公が英雄ではなく、対立する人物が英雄――主観であるべきところが、客観――なのである。
 これらがそれぞれ、きめ細やかに織られ、ジオラマは形成されている。ため息が漏れんばかりだ。
 しかし、力みすぎている節がないでもない。いささか凝り方が過剰であるといえる。おそらく、二十代の大江は、ここまでじぶんは精巧にジオラマづくりができると、多くの者に見せつけたかったのだろう。前述した構図たちは、深く読みこまずとも多少の知識さえあれば比較的楽に察知できてしまう。では、ここで、尋常ならざる集中力が欲に負け、瞬間途切れて詰めの甘さが出てしまったかというと、ちがうだろう。これは自己顕示欲に揺さぶられて曝してしまった醜態では、おそらくない。本人はこのことも計算ずくであったにちがいない。自己顕示欲からくる脆さにより察知できてしまうと、相手に自然と思いこませるように、それとなく構図の手がかりをわざと設置し、読解力のある手強い相手をもいなせるように仕向けたのだ。だが、あまりに論理が過ぎた。裏目に出たといわざるをえない。
 大江はじぶんの構築した完全な仮想空間に相手が自覚なく踊らされることを、陰でほくそ笑む算段であったようだが、察知できてしまうということはつまり――ジオラマジオラマでしかないということだ。