夢の島=吸殻の山

本内容は「せいじん」を対象としています。

木山捷平 著『酔いざめ日記』評Ⅱ

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* 平凡

 
 木山捷平は凡人だ。
 どこまでいっても、凡人だ。
 島崎藤村夏目漱石志賀直哉谷崎潤一郎安部公房三島由紀夫などには到底及ばない。
 とびぬけた発想力もなければ、研ぎ澄まされた独特の文体もない。
 しかし、かえって、だからこそ、良さがある。魅力がある。
 そういわざるをえない。日記の一部にもそれはよくあらわれている。

・昭和十二年二月十日
 仕事をしない自分。久しく仕事をしない自分をかなしく思う。「海豹」三人組と呼ばれた大鹿卓は「新潮」三月号に小説をかいてどんどん仕事をしている。太宰も正月号の「改造」に書き、名をひろめた。私一人がぶらぶら酒などのんで歩いている。嗚呼仕事に没入したい。

・昭和十二年七月七日
 暑いのと、子供のいたずらとで一日中精神が疲れて高揚せず、小説も書けぬ。少し思案のできる部屋がほしい。

・昭和十三年一月九日
 虚無。朝床の中で、誰か首でもしめて呉れればそのまま死んでしまいたい、そんな気持、ぐんにゃり一日を送る。

・昭和十四年八月二十日
 「文芸春秋」九月号をよむ。芥川賞の選評をよむ。選者たちは神様にでもなったつもりで書いている。宇野浩二のタヌキまで悪口を書き居る。ひいきのひきたおし、という奴だ。腹がかきむしられるようだ。ともかく、いい作品をかかねばならんのだが、こんなに書かれてはめいるばかりだ。出るところへ出ると人間はたたかれると言ったらいいのだろうか。

 かれは素直な人間である。
 文学賞を得られないことに悶々とし、まわりの華やかな活躍をうらやみ、執筆できない愚痴をこぼし、指の怪我で特定の人物をずっと怨む。さいごにいたっては、痛々しいほどの闘病記録だ。
 高尚ではない。じつに、市井のひとらしい。そこが、かれ特有の魅力の源泉といえる。とくべつでないことが、魅力なのだ。小説では、その魅力が端々ににじんでおり、深刻な場面でもどこか間の抜けた〈おかしみ〉としてそれが感じられる。しかし、『酔いざめ日記』となると、端々どころではない。全篇において、生活苦や悲哀が横溢しているにもかかわらず、〈おかしみ〉が石ころのようにどこにでも転がっている。
 この〈おかしみ〉は、ほろ苦いユーモアと捉えてしまっても遜色ないが、正確とはいい難い。ほろ苦いユーモアとひと口にいっても、井伏鱒二ほどとぼけていなければ、嘉村礒多ほど激烈でもない。よくも悪くも、中途半端な位置に居座っている。本人は意識していないだろうが――むしろ、意識できていたら、このような位置に居座る気など更々なかったろう――、平々凡々を貫く、絶妙な平衡感覚をもってしての、ほろ苦いユーモアなのである。まるでゴンチャロフの作品に登場する一主人公である。地に足がつきすぎている。といっても、『オブローモフ』に登場するオブローモフでもなければ、『断崖』に登場するライスキーでもない。傾向としては『平凡物語』に登場するアレクサンドルが非常に近いだろう。アレクサンドルと木山捷平のちがいは、泥くさい努力をしたか否か。それだけである。ゆえに、『酔いざめ日記』は、その泥くさい努力――異様な文学への執着と、途方もない徒労――の果てに、ようやく微々たる名声を掴みとった、凡人の記録としての様相が露わになっている。
 もちろん、しょせんは、凡人の記録なのであるから、残念なことに、そこまでしても、かれはアレクサンドル同様、芸術家にはなっていない。なれなかった。されど、アレクサンドルとちがって、世間に沈むことなく、世間の片隅で立派な職人にはなれた。
 文学青年に、とくべつでないことは、けっして悪いことではないと、たしかな量感をもって本書は語りかけてくる。