ツメノめ

本内容は「せいじん」を対象とし、一部過激な思想、表現を用いています。

折口信夫 著『反省の文学源氏物語』書評Ⅰ

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読みやすさ:3
おもしろさ2
意味ぶかさ:9
※10点満点での評価※

 


 指南書や自己啓発の類は、たいてい陳腐になりやすい。

 しかし、本篇は、指南書や自己啓発の類でないにもかかわらず、陳腐になってしまった。
 指南書や自己啓発の類とちがって内容が薄いわけでもないのに、なぜ陳腐になってしまったのか。
 時の流れによって、風化してしまったのだろうか。あるいは、そうかもしれない。
 ともあれ、内容を詳らかにしないかぎりには、話がはじまらない。
 さっそく……というわけにはいかなかったが、源氏物語を麻酔にかけ、術式を施している折口信夫に登場してもらおう。

 かれは、源氏物語を開腹して、無駄なものを押し退け、奥深くに隠されている〈ものがたり〉の仕組みを明らかにせんと試み、まさにそれはうまくいっている。かれの手腕は見事だ。和の『詩学』とでも評すべき片鱗がうかがえる。かれはどうやら〈神〉と〈巫女〉と〈もののけ〉が主要器官だと睨んでいるらしく、それを造作もなく取り出してみせる。かれの言葉を大いに借りて、それぞれを要約し、ここに記すことにしよう。
 まず〈神〉は、このような具合らしい。
「流離・困憊の極。死の解脱により転生せし者。これは中世以後の処理をうけたものであり、古代よりあった考えは、神の子がこの世に出現し、やがて神になろうというもの。広汎な神出生は、人に見出され、その扶養を受けて、偉大性を発揮する、あるいはその手によって死ぬ。光源氏が該当する。」
 つづいては〈巫女〉である。
「大昔の宮廷では皇女は生れながらにして、巫女となって神に仕える宿命をもち、この世に現われていたとされる。紫の上が該当する。」
 これにはふたつの条件が示されているといっても過言ではない。ひとつは宮廷の女であること、もうひとつは神に仕える者であることだ。
 さいごに、〈もののけ〉である。
「霊魂を意味する〈もの〉と、病気の義なる〈け〉が用いられた熟語である。霊の病、すなわち怨霊を意味する。生死は問わず、怨みによって生ずる。六条御息所が該当する。六条御息所は、生霊→死霊→魔界の所属と変遷する。」
 つまり、人間臭い情念をもって、〈神〉を阻害する者のことを指すようだ。
 これらが連関し、強固な三角形を構成することにより、〈ものがたり〉は〈ものがたり〉として機能しはじめ、この世にまっとうな生を授かるらしい。しかし、これだけでは終わらない。〈ものがたり〉が生を維持するための要素として、作為性と伝承性のバランスが重要であることもたちまち見抜いて、かれは披露する。さらにはそれだけに飽き足らず、〈ものがたり〉の動力をも、かれは探る。そして『日本霊異記』や『今昔物語』を例にあげつつ、光源氏が経た境遇を分析し、動力が因果応報であることも解明し、われわれに提示してくる。

 なんともスリリングな術式である。ふだん、〈ものがたり〉に触れていない者にとっては目から鱗が落ちたような錯覚に囚われてしまいそうだ。だが、その錯覚を起こした者があるとすれば、それは怠慢による己の知的好奇心の衰えを恥ずべきだろう。なにせ、この折口信夫が披露した術式は、画が白黒、かすれ気味、俳優がオーバーリアクションといった無声映画のように古びたシロモノなのである。新鮮なものではない。
 なぜ古びてしまったのか。前述したが、時の流れによるものかもしれない。文化は、急速であれ緩慢であれ、いずれにしろ前進する。そのせいで、いまとなっては、ありふれてしまった。ことごとく、小説家連中がかれの術式の成果を利用し、手垢にまみれたものにしてしまったのだ。かれらばかりではないだろう。指南書や自己啓発の類まで、その小汚い筆で、かれの術式の成果を散々しゃぶり尽くし、食いものにした。まさに、いまのこの書評のように……。陳腐にならざるをえないわけである。
 すでに、昨今の職業小説家等のうち一部の者はこれに気付いているようだ。そのため、あえて〈ものがたり〉の仕組みにおける三つの要素の視点変更を行い、読み物を創造している。しかし、それももう頭打ちだろう。今後の小説家には、〈ものがたり〉の視点変更ではなく、〈ものがたり〉の逸脱、あるいはその逆である〈ものがたり〉の狂熱が求められている。