ツメノめ

本内容は「せいじん」を対象とし、一部過激な思想、表現を用いています。

ロジェ・カイヨワ 著『遊びと人間』書評Ⅰ

 f:id:nekonotsume:20200428172801j:plain

読みやすさ:4
おもしろさ3
意味ぶかさ:8
※10点満点での評価※

 


 ベルクソンの『笑い』のように、構造を推し量っているという意味においては、『遊びと人間』は精緻である。
 それは、まず〈遊び〉ということば自体に足を止め、虫眼鏡でじっくり観察するようによく吟味し、ページをそれなりに割いていることからも明らかだ。さまざまな視点から覗きこみ終えて、ようやくロジェ・カイヨワは、満足のいった様子で〈遊び〉のまとめを仕立て上げるが、それも大雑把なものではない。あくまで多様性を持たせつつ、洗練するだけにとどめている。かれの〈遊び〉ということばから抽出した概念はこうだ。

(一)自由な行動。すなわち、遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。
(二)隔離された行動。すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されること。
(三)未確定の行動。すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。
(四)非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。
(五)規則のある活動。すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。

(六)虚構の活動。すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。

 これを経て、カイヨワはいよいよ〈遊び〉の種別にとりかかり、四つの要素に行きつく。それが、アゴン、アレア、ミミクリ、イリンクスである。
 それぞれ順に、かれの説明に耳を傾けると、アゴンは「すべて競争という形をとる一群の遊び」であり、アレアは「偶然の気紛れそのものが、遊びの唯一の原動力となっている」「アゴンとは正反対に、遊戯者の力の及ばぬ独立の決定の上に成り立つすべての遊び」であり、ミミクリは「架空の環境において活動を展開したり、運命に服従したりするところにではなく、彼自身が架空の人物となり、それにふさわしく行動する」すべての遊びであり、イリンクスは「一時的に知覚の安定を破壊し、明晰であるはずの意識をいわば官能的なパニック状態におとしいれようとする」「眩暈の追求にもとづくもろもろの遊び」とのことだ。おどろくべきことに、この四つの要素で、たいていの遊びは別けることができる。しかし、
これらの分類をもうけても、カイヨワはなお物足りなかったようである。かれのなかで、アゴン、アレア、ミミクリ、イリンクスの四種は、菱形を成すようなx軸の両極、y軸の両極の役割は果たさなかったらしい。いずれもx軸ではあれ、y軸ではなかった。そこで、くわえて登場するのが、遊びともいえない気晴らしを意味するパイディアと、暇つぶしとしての遊びを意味するルドゥスである。この二つの要素の追加するにより、やっと〈遊び〉を型にはめることに成功したと、カイヨワは確信し、追求の手をとめた。
 だが、どうだろう。ここまでくると、なにやら伸縮自在な軟体動物を無理やり釘で固定し、細切れに解体しては、どうにかこうにかそれらしく整然と部位を区別したかのようだ。易しい作業にみえるが、さぞかし苦労はしただろう。〈遊び〉は大いに暴れ、大いにぬめったはずである。とはいえ、それらを区分けして何になる?
 どうやらカイヨワは一度はじめてしまった以上、その苦労した区分けを無駄にすることが出来ず、なんとかそれに意味性や有用性を見出そうと、このあとに文化に結び付ける努力をはじめるが、切り分け、名称をつけ、各部位の働きを見出し、それらを軟体動物全体に当てはめてみたとして、生き生きとした軟体動物そのものの実態を掴めるものだろうか。
 ロジェ・カイヨワはたしかに本書において、いままでにない視点で人類の文化や社会を眺めることができるように読者を導くという偉業を成し遂げた。
 しかし、いっぽうで、あらたな視点を提供するのに、力を過剰にこめてしまった。
 ベルクソンの『笑い』に笑いがなかったように、本書もまた、遊びを論じていながら、肝心の遊びがない。