ツメノめ

本内容は「せいじん」を対象とし、一部過激な思想、表現を用いています。

木山捷平 著『酔いざめ日記』書評Ⅰ

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読みやすさ:9
おもしろさ5
意味ぶかさ:5
※10点満点での評価※

 


 文学には、さまざまな分野がある。
 詩、短歌、俳句、小説、評論、戯曲――
 いずれも、定跡じみた形式があり、それを踏まえることで確固とした姿形になるが、同時に、制限に縛られることも意味しており、多少の画一化は免れない。
 ゆえに、精力的な読み手であれば、遅かれ早かれ、その画一化につき当たり
、読むことに倦んでしまう。
 しかし、そこで倦怠を緩和させてくれるのが、随筆であり、日記である。
 この二分野はとにかく自由だ。
 なかでも、日記が秀でている。随筆もこれといった制約がないものの、日記にはおよばない。日記は、もっとも混沌とした分野なのだ。
 言語が自由。形式が自由。文体が自由。
 そればかりか、読み手を意識するかしないかも自由である。
 すべてがすべて書き手に委ねられており、どのように書こうとも、そこに日付を入れるだけ(それを日記として認識するのであれば、いれなくともよい)で成立してしまう。
 ということは、とうぜん、〈書く〉が圧倒的な比重を占めているため、ことばの奇想箱としての様相を呈しやすく、また顕著な形で、書き手の本質が表れやすくなる。翻って考えるならば、書き手の本質をじかになまなましく触れられる分野でもあるといえるのだ。
 ただ、日記にも大きくふたつに別けることが可能であり、それは前述にもあるが、読み手を意識するかしないかである。
 読み手を意識してしまっているものは、文の美しさや論の明澄さが目立ち、読みやすい。だが、著者の本質はやや曇りがちに映る。
 いっぽうで、読み手をまるで意識していない、ごく私的な日記というのは、まさしく本質そのものといった感があり、読了後はたしかな手応えがある。
 その手応えが得られる具体的な日記となると、意外にも、有名な、永井荷風の『断腸亭日乗』やドストエフスキーの『作家の日記』ではなく、一例としてあげるのなら、木山捷平の『酔いざめ日記』だろう。
 なぜというに、もともと『酔いざめ日記』はひとつの作品ではなく、ほんとうに、ただの木山捷平自身の個人的な、じぶんのための日記であった。それが死後、妻の手によって編まれ、題をつけられ、世に出た――出てしまったのである。

 本書には、木山捷平という人物が、文士として活躍し出した二十九歳から病に斃れる六十四歳までの日々が収録されている。約三十五年の歳月が封じこめられているだけあって、ひとりの人間の変化があからさまににおい立つ。読み手の想定をしていないため、初期には初々しさが、中期には荒々しさが、後期には落ち着きが、見受けられるのだ。また、きほん、中身は、とくべつなことなど何ひとつ書かれていない。愚痴や不平、弱音、趣味の話や文壇事情、そして死への嫌悪などがたれ流してあるばかりだ。
 だが、それがいい。しがない人間が行間に息づいているところがいい。
 文士であるまえに、物書きであるまえに、小説家であるまえに、詩人であるまえに、ひとりの人間である。
 そう感じさせてくれる物書きはいったいどれほどいるのだろう?
 ケストナーの言葉にこんなものがある。
《人生を重く考えることは、かんたんだ。だが人生を軽く考えることは、むずかしい。》
 木山捷平は人生を軽く考えることのできる稀有な文士のひとりだった。