ツメノめ

本内容は「せいじん」を対象とし、一部過激な思想、表現を用いています。

武田泰淳 著『ひかりごけ』書評Ⅲ

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読みやすさ:6
おもしろさ5
意味ぶかさ:8
※10点満点での評価※

 


 宗教的化身というのは、たいてい、
輝いている。
 これは仏教、ユダヤ教イスラム教、キリスト教ヒンドゥー教ゾロアスター教関係ない。
 すべてがすべて、
穏やかな力強い光をまとっている。
 それは絵画や壁画、彫刻をみれば明らかだろう。
 定朝作『阿弥陀如来坐像』や、レオナルド・ダ・ヴィンチ作『最後の晩餐』、フラ・アンジェリコ作『受胎告知』、ウジェーヌ・ドロクロワ作『民衆を導く自由の女神』はもちろんのこと、ジョン・エヴァレット・ミレー作『主の勝利』や、アントニオ・ヴァッシラッキ作『聖母子像』、ブオナミーコ・ブファルマッコ作『最後の審判と地獄』、『預言者伝』にも、化身は露骨に、あるいは控えめに、光とともに描かれており、また名もなき作品においても、エジプト神話のラー、ハトホル、仏教の明王ゾロアスター教ゾロアスターヒンドゥー教のカーリー女神、シヴァ神などは、背後に光を伴わせている。
 これらの光は、その化身を目立たせる作用があることから、異質性やカリスマ性を可視化したものであろうと推測できる。もちろん、それらの光は、かんたんに、気軽に、発現したものではないだろう。化身らは、自らを特別な存在であると確立するために、存在非在関係なく、能動的な姿勢を極限まで推し進め、とうとう内面を表出化(発露)することに成功し、真に特別な存在になりえた結果として光を発現させたのであり、芸術家たちはその光を気まぐれで描いているのではなく、描かざるを得ないがゆえに描いているのだ。すなわち、光は能動の一極致といえる。
 しかし、いっぽうで、『ひかりごけ』も光を帯びる者たちが登場するが、かれらが帯びる光は、どうやら宗教的化身が帯びる光とは、別種のものらしい。書き手の〈私〉は、題ともなっている蘚苔類の〈ひかりごけ〉をとおして、人物に灯る光の様子をこのように示している。
《かすかな、ひかえ目な、ひとりでに結晶するような淡い光》
《光を外へ撒きちらすのではなく、内部へ吸いこもうとする》
《生きんがために策略をめぐらす、蘚苔類の奇怪な生き方を、無気味に押しつけてくる気配もない》
 宗教的化身のおだやかで力強い光とは、ほとんど真逆とも捉えられるような光の質である。ひそやかで、どことなく陰気である。また、一度光が発現した者は、宗教的化身のように、つねに見えるわけではなく、そこは八蔵がこう語っている。
「その光の輪はな。誰にでも、何処ででも、見えるようなもんじゃねえだ。ある人間がよ、ある向きからよ、ある短けえ時間だけ、見れば見えるだよ」
 瞬間的なものであるらしい。
 では、能動の一極致でもないのかと問われると、それに関しては、ある意味で正しいが、ある意味で正しくない。『ひかりごけ』においての光の発現条件は、またしても八蔵が「昔からの言い伝えにあるこった。人の肉さ喰ったもんには、首のうしろに光の輪が出るだよ。緑色のな。うッすい、うッすい光の輪が出るだよ」と明確に語っており、〈禁忌を破る〉という、能動の一極致を経ることによって発現するかのように打ち出している。だが、それは裏を返せば、生理的欲求にたいしての受動の一極致であるかのようにも捉えられ、くわえて、その実、厳密には八蔵のいうとおりではなかった。じっさいに、人肉を食った者同士がさらに相手を殺し、食べようと意思を固めたとき、なおそれは輝きだしたばかりか、あげくは人肉を食っていない者たち――法廷で船長を裁こうとする者たち――までも光を備えるようになってしまった始末である。
 ここで、レヴィ=ストロースの『われわれはみな食人種』をもち出して使いたいところではあるが、これは歪んだ光の解明に陥りかねないため、やめよう。肉体的に食らうから、精神的に食らうから、といった直截的に「ひとを食う」ことが、光につながっているわけではないからである。武田泰淳は、中国文学研究者であった。そして、日本文学を独自の視点で深化しようと努めた人物であった。そんな人物がレヴィ=ストロースにつながるような西洋的な思考回路を備えているはずがない。いうとおりではなかったからといって、軽々しく放り投げてしまうのではなく、いま一度、光の発現について語る八蔵をじっくり観察したほうが、たしかな解明ができそうである。
 あらためて、どっかりと腰を据えて、八蔵の様子を凝視しながら、発言に耳を傾けていると、かれは瀕死状態で、うわ言をつぶやいているようにしか感じられない。八蔵自身、話相手の西川に目がかすんできたと言っており、それを証明するかのように、焚火がみえていない。にもかかわらず、話相手の西川の姿は確認できており、そればかりか光を目の当たりにしている。支離滅裂だ。意識が混濁しているといっても過言ではない。そこで、さきほどの台詞である。あやしいといわざるをえない。おそらく、極限の飢餓と人肉食いが行われている環境下であるために、昔からの言い伝えを無意識に曲解し、西川に伝えてしまった可能性が濃厚である。
正確には、〈人の肉さ喰ったもん〉ではなく、「人を食った話だ」や「人を食った態度だ」といったような意味で、〈人さ食ったもん〉と昔の言い伝えにはあったのではないだろうか。もしそうであるとすれば、とたんに八蔵の発言は誤りではなくなり、光を帯びた者たちの共通点が浮かびあがる。かれらは光を発現させた際、一様にひとをひととして思わないような、ひとをまともに扱わないような態度を貫いているのだ。このことから、『ひかりごけ』では、他者が人間ではない異質性を備えていると盲信する姿勢が光を発現させるきっかけとなり、だからといって、その光は継続的でなく、断続的であることから、作中の人物たちが自ら発現させるものではなく、作者である武田泰淳が、演出効果として、意図して与えているものであることがわかる。つまり、『ひかりごけ』における光の正体は、能動にみせかけた受動の光だったのだ。
 ようやく、光の正体が明らかになってみると、なんと、武田泰淳がまばゆく見えることだろう。きっと、『ひかりごけ』の登場人物たちに分け与えられるほどの光をもつ人物だからこそ、まばゆいのだろう。複雑な光をかれは帯びている。しかし、光があれば陰があることを忘れてはならない。『ひかりごけ』は実際の事件をもとにした作品である。