ツメノめ

本内容は「せいじん」を対象とし、一部過激な思想、表現を用いています。

ガルシア=マルケス 著『予告された殺人の記録』評Ⅱ

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* 意識の肛門

 
 中国人全員に携帯電話と連絡先が書かれたリストを渡し、じぶんの電話が鳴ったら、もらったリストにある番号全てに電話をかけてもらう。その作業を延々にやりつづけてもらう。さて、そこで生まれた巨大な携帯電話のネットワークに、意識はあるのか?

 このような思考実験がある。「中国脳」と呼ばれるものだ。
 個人的には非常に興味深く、他愛もない場面でよくこれをもち出しては熟考してしまうときがある。かといって閃光のように鋭い啓示じみた結論が芽吹くわけではない。その結論に向けて思考の糸を引き絞るわけでもない。むしろ、その逆といえる。いつもそれを考え出すと、途端に思考が澱んでいく。そして、しばらくそれにたゆたったあと、べつの思考に割りこまれ、やがては流れ去ってしまう。しかし、ぼんやりと、「ある」か、「ない」か、の判定だけはなんとなく下せている。判定は、「ある」にいつも傾いている。理由はひねくれているかもしれないが、逆説的に、というやつである。
 ネットワークが生じることことでようやく、意識の有無が問われるのではなく、《中国人全員に携帯電話と連絡先が書かれたリストを渡し、じぶんの電話が鳴ったら、もらったリストにある番号全てに電話をかけてもらう。その作業を延々にやりつづけてもらう。》という指示自体が、すでに〈大いなる意識〉なのではないかと考えている。つまり、その指示が、そもそも、ネットワークの意識であり、意思である。それによって人間にもわかるように可知覚化された〈携帯電話のネットワーク〉は、一時的表層の姿に過ぎない。

 そのようなひねくれた考えへ自動的に導かれてしまうのは、ひとえに『予告された殺人の記録』のせいだろう。本書に登場する町は「中国脳」以上に「中国脳」なのだ。人が人として生命活動を維持し、機能するため、無条件に使役させられている体内の臓物のように、町の者たちもまた、それと知らず、まるで自分の意思があるとでもいわんばかりに個の意識を信じて行動するものの、その実、町の意思によって使役させられている。前のめりに人物たちへ着目してしまうと霞んで〈大いなる意識〉を捉えられなくなってしまうが、すこし冷静になって物語を俯瞰し、あらたに焦点を合わせてやると、とたんにあからさま過ぎるほど、〈大いなる意識〉の姿は鮮明になり、かの存在が単に食事と排泄をしているだけという、あっけらかんとした筋によってこの物語が成り立っていることが容易にわかるようになっているのである。
 徹底的に無駄をそぎ落とした形で〈大いなる意識〉の食事と排泄だけを取り扱っていることにより、可知覚化もさることながら、類似した他の物語よりも、〈大いなる意識〉の食事と排泄が何であるかもわかりやすくなっている。
 食事は外界から異端分子を取りこみ、摂取することだろう。これは、本書だけをみていっているのではない。大江健三郎の『飼育』や、中上健次の『軽蔑』、マーク・トウェインの『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』、ウィリアム・フォークナーの『八月の光』などにも、そのような町(あるいは村)の食事する場面がそれとなくひっそりと描かれている。この食事によって、町は異端分子のもつ味に刺激を受け、体内にその刺激がもたらす栄養を隅々にまで行き渡らせ、やがて異端分子そのものも自身の体内に適応し、体の一部となるか否かの様子を見るのである。そして、異端分子が体の一部となれなかった場合、はたまた、その刺激によって体内から不要物が生じた場合は、無理して溜めこむことなく、自然に排泄へと至るという流れだ。
本書では、バヤルド・サン・ロマンが異端分子の役割を果たしている。しかし、町にとってのバヤルドは、ステーキやムニエルといった類の食物ではなく、どちらかといえば、ウイスキーやラムといった度数の高いアルコール飲料だったのだろう。町は存分にその味をたのしんだあと、すぐに排泄してしまっている。深酒をすると翌日にはよく下痢をするものだが、まさしく、バヤルドはそのような感じでそそくさと吸収されずに排出され、同時に、むろん下痢というからには、水分だけでなく、体内の不要物も排出されるのだから、いずれは糞となる運命だったサンティアゴ・ナサールも時期尚早にバヤルドとともに排出されてしまった。
 この排泄にあたって、肛門の役割を果たしたのは、サンティアゴと姦通した疑惑があり、またバヤルドとつかの間の結婚をしたアンヘラ・ビカリオそのひとである。
 肛門は周知のごとく、不要物を体内から体外へと追放する出口であり、体内においてはさいごにそれと接触する器官である。そして、なにより、とうぜんのことながら、この器官――すなわち、肛門――は独立した意思をもたない。
 これらの要素をアンヘラはしっかり備えており、町の意思に忠実であった。忠実であるがゆえに、ふたりを町外へ排出した。だが、排泄する際、はじめてバヤルドの本質に直接触れ、はげしく恋に落ち始めたのはなんとも興味深い。

 とはいえ、町にとって、肛門と下痢の恋など、知ったことではない。町は自身を保つことで精一杯である。この物語が終わったあとも、物語の外で、町は変わらず、あらたな食物を取りこみ、味わい、健康維持への栄養とし、順応するものがあれば新たな器官とし、不要になったものはいさぎよく排泄しつづけているだろう。いや、「しつづけているだろう」ではなく、「しつづけていた」。しつづけていたからこそ、物語の書き手は町に起こったグロテスクな出来事の全容を知ることができたのである。町は、〈大いなる意識〉は、無数の人々によって形成され、たしかに生きている。

 これは、『予告された殺人の記録』の町だけの話ではない。かの町は「中国脳」同様、ひとつのモデルである。しょせん、われわれもまた、作中におけるバヤルドであり、サンティアゴであり、アンヘラなのだ。つまり、村・町・都市においての無自覚の食物であり、無自覚の器官なのである。