夢の島=吸殻の山

本内容は「せいじん」を対象としています。

サム・メンデス 監督『ロード・トゥ・パーディション』評Ⅲ

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* 異常者、健常者、錯視

 
 本作の主人公であるジュニアは、コナーと対比構造になっている。それもあからさま過ぎるほどに、あらゆる点において対になっている。
 素描のように箇条書き形式で書き出してみると、まさに、といった感がある。

 ジュニア
・肉体は成熟しきっていない。
・精神は大人びている。
・社会的に独立し、生活力がある。
・率先して父の仕事の手伝い、役立っている。
・感情をあまり表に出さない。
・だれも殺さない。
・父と同じ道を歩まない。

 コナー
・肉体は成熟している。
・精神は幼稚である。
・社会的に独立しておらず、親許に依存している。
・父の仕事を手伝っているものの、じっさいは邪魔ばかりしている。
・感情を表に出しやすい。
・よく殺す。
・父と同じ道を歩む。

 唯一共通しているのは、父の存在である。
 どちらもマフィア稼業をしており、それに大きく影響を受けている。
 この共通項が対比をなお深め、両者の人物造形にコクを与えているといえる。
 本作は全篇において、この対比がとにかく丁寧に描かれており、それに厚みをもたせる形で、父同士の闘争も加わっている。
 そのため、ジュニアとコナーのあいだに線を引き、いまさらのように、その線があらわす対立そのものに着目し、それをつぶさに語るのはあまりに浅はかであり、面白味に欠ける。また、マイケルとジュニア、ジョンとコナーといったふうに父子関係に焦点をあてた内容も陳腐であろう。それよりも、対立や関係を重視しないで、あえてジュニアとコナーをそれぞれ眺めることにより、またべつの、一風変わった愉しみを見出そう。
 さて、まず、ジュニアであるが、コナーの影を取り払い、単体で眺めると、悪役として描かれ、異常者のようにも映るコナーよりも、ずいぶんと異様な――異常な――人物になる。
 母と弟の死に少年らしく慟哭せず、苦味しばった大人の悲哀をグロテスクにも覗かせるだけであり、息子への愛情をうまく表現できない不器用な父にたいして、従順かつ素直であり、同時にそれを包みこむかのようにふかい愛を注ぎ――もはや、どちらが「父親」なのか――、家族の最後のひとりである父が瀕死の状態となり、自身も命の危機に見舞われている場合でも、優勢な立場でありながら、相手を殺さない。つまるところ、少年であるにもかかわらず、精神的に多感な時期であるにもかかわらず、おそろしく私情に駆られずに、清く正しい理想的な「善人」を体現しつづけるのだ。精巧に仕上げられた人造人間じみており、さながら『ニューロマンサー』に登場するフラットラインようである。いや、まだフラットラインのほうが人間味があるのかもしれない。フラットラインは自身が人間でないことに自覚的であるが、ジュニアのほうは無自覚であり、じぶんを疑いなく人間だと信じこんでいる。これに疑問を呈するのなら、あらためて冒頭と末尾におけるジュニアの独白に耳を傾けるといい。大事な者たちを亡くした「少年」とは到底思えない言葉が聞けるだろう。
 いっぽうのコナーは、ジュニアを追い出してしまえば、何の変哲もない、同情を誘うようなみじめな健常者である。ジュニアのせいで、巧みに悪役へと仕立て上げられているだけに過ぎない。かれは『ジョーカー』におけるアーサー・フレックや『タクシー・ドライバー』におけるトラヴィス・ビックルといった人物たちとそう変わらない。社会的弱者である。真綿で首をしめてくるように、じわじわと窮屈な世界へと押しこもうとする社会への必死の反逆(もがき)――あえて、父のジョンを超えるため、父のジョンに愛されるため、『オイディプス王』のオイディプスのように、とはいわない――としての行為として、あくまで殺人も厭わない職種であったために、かれはためらいなく殺人を犯したのだ。じっさい、アーサーもトラヴィスも社会への反逆でひとを殺している。コナーとちがってやむなく殺人を犯さなければならない職種でもないのに! アーサーやトラヴィスは殺人を犯したことで「英雄」となるが、コナーはそうならなかった。憎らしい「卑劣漢」として、むなしい最期を迎える。
 かれは、なにがいけなかったのか? アーサーやトラヴィスと何が違ったのか? 女子供を殺してしまったからだろうか? それとも、マイケルやジュニアと対決しなかったからだろうか?
 まぎれもなく、錯視が原因なのだろう。
 けっきょくは、ジュニアとコナーのあいだにある対比がもたらす歪みがコナーを「卑劣漢」へと貶めた。
 すこし別の角度から眺めてみれば、前述したように、ジュニアは「善人」であるようプログラムされた人造人間に過ぎず、コナーは「英雄」になるはずの健常者であることがわかる。しかし、もとの位置に戻ると、眼が狂い、ジュニアが人間味のある勇敢で誠実な「少年」となり、コナーが冷酷でわがまま極まりない「卑劣漢」になる。
 これは、錯視のなかでも、ポッゲンドルフ錯視の類であろう。
 もちろん、ジュニアとコナーとのあいだに引かれた対比の線を覆い、観客の眼を狂わせるのは、両者の父の存在である。