夢の島=吸殻の山

本内容は「せいじん」を対象としています。

ガルシア=マルケス 著『予告された殺人の記録』評Ⅰ

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* 崇拝されるがらくた

 
 人間は文化の進展とともに、さまざまな人工物をつくり出してきた。
 建物、乗物、家具、農耕具、工具、機械、衣服、食器、文具、美術品、日用品、玩具――
 これらはもちろん、すべての人工物のうちのほんの一部に過ぎず、徹底的にあげるとしたら際限がない。
 じつに多くの種別があり、用途も多岐にわたる。
 これらの人工物には、一見、まとまりがないようにも見えるが、大きく単純に捉えると、使用する物であるという共通点がある。人間の五感や身体機能を癒す、あるいは強化する働きを持ち、日夜人間を補助してくれている。しかし、一方で人間によってつくられながら、そういった働きをもたない、さらには人間に何の益ももたらさない物もある。
 そのような類の物たちは、総じて〈がらくた〉と呼ばれている。
 この〈がらくた〉と呼ばれる物は、あらゆる人工物のなかでも、抜群の特異性を放っている。というのも、それは、ご存知のように、他の人工物とは一線を画し、なにかのために使う物でもなければ、なにかに必要な物でもない。ただ、「在る」というだけに存在のすべてが集約された物なのだ。
 そのため、世間一般で〈がらくた〉としてあつかわれる物たちのなかには、厳密に突き詰めて考えていくと〈がらくた〉と呼称できない物が意外にも多くあることに気付く。たとえば、珍妙な壺である。たとえば、故障したラジオである。たとえば、なにかの部品だったであろう鉄屑である。これらはどれも使い道がある。花瓶として利用したり、修理してふたたび放送を流せるようにしたり、壁掛けフックにしたりできるわけだ。所持する者の感性によって、必要不要の判定が下されているだけである。
 では、非の打ちどころなく〈がらくた〉と呼称できる、純粋にして完全な物として「在る」のは何かと問われれば、それは木彫り像である。
 木彫り像という物は、何の役にも立たない。基本的に人間に使われることを嫌っているようであり、かろうじて用途として見出せそうな、玩具としての機能もやんわりと拒否している。ただ、無造作に、置かれるという行為だけを好む。置かれたからといって、とくに人間に対する返礼はない。人工物でありながら、創造主である人間にたいして傲慢であるようにすら映る。しかし、木彫り像が絶えることはない。いまも、世界のどこかではそれを創造する者がある。なぜ無意味な物を人間はつくり出すのか。いや、この疑問はおかしいのかもしれない。創造する者はそもそも無意味だなんて露ほども思っていない。それもそのはず、創造される過程においてのみ、人間は木彫り像――むろん、過程であるため、木彫り像というよりかは木材と表現するほうが正しいのだろう――に明確な意味と用途を見出すのだ。完成してしまえば最後、木彫り像は木彫り像然とし、「完結」する。つまり、有形の死を迎え、そこではじめて〈がらくた〉と化す。「在る」だけに転じてしまうのである。
 たしかに、完成してしまったあとは、人間の役に立つことはない。とはいえ、だからこそ、あえて愛好するという者がある。おそらく、〈がらくた〉の本質である、有形の死に魅せられているのだろう。具象化した死に、ある種の神秘を直覚し、その像を通して大いなる死――非在の世界――を意識的か無意識的か感知し、虜になっているのである。『白鯨』のクイークェグがいい例である。かれは生後三日目のコンゴの赤ン坊と見紛うような、背中に瘤のついた変妙な形の小さな木彫り像を持ち歩き、祈りを捧げ、お告げを授かっている。あたりまえの話だが、木彫り像は木彫り像である。しかし、クイークェグは非在の世界の使者だと信じているのだ。
 そして、『予告された殺人の記録』にもそのような木彫り像が登場する。だが、クイークェグがポケットにしまいこんでいるような、あからさまな木彫り像の姿をしてはいない。おおっぴらに会話し、行動する人間大の人物じみた木彫り像である。なんとも奇怪で突飛な気を起こさせてしまうかもしれないが、物語のながれに目をとおしてもらえれば、矛盾なく納得してもらえることだろう。前述にて、木彫り像は有形の死であり、創造される過程において、人間に意味と用途を見出されると記した。まさしく、サンティアゴ・ナサールの名をもつ木彫り像は有形の死からはじまり、そこからある地点まで巻き戻ってふたたび再生される。ひたすら創造過程が丁寧に描かれていくことで読者に読む行為の意味を持たせている。では、サンティアゴはだれが所有する木彫り像なのかというと、それはガルシア=マルケスであり、読者であり、作中の舞台となる町である。
 おもしろいのは、それぞれに所有される木彫り像はサンティアゴだけでないというところである。バヤルド・サン・ロマンという登場人物もまた、人間そのものであるかのように脚色された木彫り像である。サンティアゴとちがうのは、サンティアゴが「完結」した木彫り像であるのに対して、バヤルドは木材とも木彫り像ともつかない中途半端な、「未完成」の像だということである。それが、ガルシア=マルケスにとっては、不服で、妙に落ち着かなかったのだろう。『コレラの時代の愛』にて、名と職を新たにし、再度の創造が行われている。
 これらの木彫り像はむろん、木彫り像なのであるから、意思はない。「在る」だけである。その「在る」が、ガルシア=マルケスの意思に、読者の意思に、そして町の意思によって、歪められ、クイークェグの木彫り像とはまたちがった形で崇拝される。そして、それが物語の核となる。
 ところで、なぜ、ガルシア=マルケスは木彫り像を物語の中心に据えたのだろう。そもそもの木材や、さらにそのもととなる樹木ではいけなかったのだろうか。
 いや……これはまったく余計な疑問だったかもしれない。
 アントナン・アルトーは、樹木を中心に据えようと試みたがために、狂人あつかいされてしまったではないか。
 木彫り像は〈がらくた〉である。〈がらくた〉は人工物である。人工物は、だれにとってもやさしく映る。