ツメノめ

本内容は「せいじん」を対象とし、一部過激な思想、表現を用いています。

サム・メンデス 監督『ロード・トゥ・パーディション』評Ⅱ

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* レンズのむこう

 
 本作に登場するマグワイアはフリーの殺し屋であり、どうやらその界隈では有名な人物らしい。
 だからこそ、マフィア専属の殺し屋であるマイケルの殺しを依頼されたのだろう。
 殺しを生業としているのだから、一人二人を殺したという次元ではなく、とうぜん複数人を殺害しているだろうことは明確であり、またそれで生計を立てている以上、真剣であることはたしかであるはずなのだ。じっさい、マイケルのほうは、殺人行為にたいして冷ややかであり、仕事として果たさなければならないという使命感と勤勉さのみがある。家族のために実行せざるをえない職務でしかない気配が感じられるのだ。しかし、一方のマグワイアはといえば、真剣とはいい難く、どちらかといえば悦楽半分である。殺人行為でしか得られない「昂奮」と「快感」を得て、それがクセに
しまっているのだ。となると、マグワイアは快楽殺人鬼なのか。これが意外にもちがう。自慰行為を覚えてしまったサルのように、その陰惨な悦楽にのめりこみ、そればかりに耽るようになってしまっては、そもそも殺し屋は務まらないであろう。
 かれは無軌道に「昂奮」と「快感」をもとめて、衝動的・突発的・欲求不満的な殺人を犯さない。
 かれの殺人行為には確固としたルールがある。
 相手を即死させない。故意に瀕死の状態にし、それをとどめておく。相手が自然に死んでいくのを待つ。そして、その死の瞬間をカメラを使って美しく撮影する。
 この儀式のような過程を忠実に守ることで、かれはようやく「昂奮」と「快感」を得ている。
 つまり、殺人行為自体がすべての悦楽をもたらすわけではない。殺人行為は悦楽の途上であり、一部に過ぎない。かれにとって、殺人行為はあくまで手段であり、それ以上でもなければ以下でもないのだ。では、何の手段なのかというと、それはまさしく創作なのである。
 創作のためならば殺人も厭わないマグワイアの姿勢は、生粋の――正真正銘の――芸術家であるといっても過言ではない。かれは死の瞬間を写真のなかに収めることに対し、異常なほどの情熱を傾けており、もはや、それに憑りつかれてしまっている節がある。なにせ、相手が瀕死の状態に陥るや否や、すぐさま撮影にあたっての光の加減をたしかめ、その場を簡易スタジオに変貌させようと取り計らい、急ぎカメラを引っ張りだしては、ご丁寧にも持参してきた三脚にとりつけて固定し、けっして逃してはならない瞬間を撮っていくのである。くわえて、かれは他の偉大な芸術家たちと変わらず、飽くなき探求者としての面もある。カメラのレンズ越しに、死と対峙し、もがく他者を凝視しながら、かれは、その者の喪失してゆく意識と、濃縮された人生を目撃しつつも立ち止まらず、そのまま通過して、生命の神秘ないしは普遍真理を抽出し、写真におさめようとたゆまない努力をしている。この努力は、殺人の積み重ねが証明している。一度や二度の殺人で終えていれば、それは創作よりも殺人行為自体に心奪われているということであり、複数回で終えていれば、表層的な部分を撮ることで満足を覚えたということである。だが、マグワイアは終えていない。それらを超え、なお継続している。ということは、じぶんの作品の出来栄えに満足していないのであり、つねに前進し、その先にあるものを掴み取ろうとしていることがわかる。
 おそらく、ひと押しひと押しシャッターを切るごとに得られる「昂奮」や「快感」は並の創作の比ではないだろう。ジョルジュ・バタイユが唱えるような〈禁止と侵犯〉のあいだを多重に往復しているのだ。すなわち、法を犯すことの悦びと、生命を脅かすことの悦び、死に接近していく悦び、真理に触れようとする悦びが足先から背筋へ舐めるように這い、密着してくるのである。それらの薬物による精神の転倒じみた極端な感覚を受容しながら、マグワイアは芸術家としての本性を露わにし、完全な作品が撮れるまでシャッターを切りつづける。しかし、狂気の芸術家とはいえない。自らを極限まで追いこみ、生命の神秘や普遍真理を写真に収めるまえに、あっけなくも超人マイケルの手によって殺されてしまうからだ。それも、ずいぶん間抜けな死に方をする。芸術家の最期にふさわしい死に方ではなく、埴谷雄高の『暗殺の美学』に沿った死に方――《殺した者は殺されねばならぬ。もし殺されずに生きていれば、彼は殺人犯になる。》――であった。
 かれは、幸か不幸か、殺し屋でもなく、殺人鬼でもなく、ましてや狂気の芸術家でもなく、消極的な意味合いにおいての、ただの芸術家として散った。
 死に際、さいごの力を振り絞って肉体にあらかじめ備えつけられているレンズをつかい、生命の神秘や普遍真理を映せたかどうかは定かでない。