ツメノめ

本内容は「せいじん」を対象とし、一部過激な思想、表現を用いています。

大岡昇平 著『野火』評Ⅲ

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* よもつへぐい

 
 主人公である〈私〉は、はじめから煉獄とも地獄ともつかぬ緑色の〈あの世〉をさまよっている。
 銃弾や砲撃が飛び交う危険な戦地のなかにいながら、勇ましい戦闘に参加せず、それどころか、これといった部隊にも所属していないのだ。というのも、〈私〉は健康を著しく害しており、戦争で活躍できる人材ではない。かといって、病院にいられるわけでもない。病院は瀕死や重症化した患者以外、相手にはしてくれない。ゆえに、部隊や病院に属すことのできない〈私〉は、望む望まない関係なく、ひとりふらふらと、さまよわなくてはならないのである。
 どこに味方がいてどこに敵がいるかわからない熱帯雨林をあてもなく歩いていく過程で、〈私〉は〈この世〉と乖離したような、小屋をみつけたり、無人の村にたどり着いたり、亡霊のような仲間と出会ったりする。それとともに、時間の経過によって、〈私〉の飢餓は深刻化し、ゆるやかに極限状態へ導かれていく。まさしく、〈私〉はいよいよもって流砂に呑まれていくように〈あの世〉の奥地へ進まされ、〈あの世〉の核にまで至ってしまう。それが、「人肉食」の場面であろう。だが、そこに至るまでのあいだ、徹底して〈私〉は〈あの世〉の受動的探訪者、受動的観察者だったわけではない。奇妙なことに、〈この世〉の尺度をもっているはずの〈私〉が、なぜか、起こすはずのない――率先して〈あの世〉に取りこまれようとする――行動を三つ起こしている。それが結果として、幸か不幸か、〈あの世〉の核への道程を正確に歩むことになり、またその歩みを早めてしまったとも捉えられる。
 ひとつ目が、物語において初の安息場となる、小屋での出来事である。この小屋は〈私〉にとって、楽園以外の何物でもなく、数日間滞在することになる。そこは無人であり、おだやかな朝を迎えられ、食事もじゅうぶんにとることができる場所であった。にもかかわらず、遠方にある十字架を発見したその日から、それに心を奪われ、そこへ向かったところで何も得られないことを予測できつつも、〈私〉は小屋をあとにする。そもそも万全とはいえない、病気を宿した身体を無理に動かしてまで、何の得にもならない「象徴」とやらのために、極限状態に陥りかねない危険な環境へ赴くものだろうか。死地をもとめての行動であれば、解らなくはないが、〈私〉は死地をもとめているふうでもない。
 ふたつ目が、会堂でのフィリピン人女性射殺である。何も知らずにやってきたフィリピン人の男女のうち、女のほうが叫んだばかりに、〈私〉は発作的に銃の引き金へ指をかけてしまう。〈私〉は弁解するように、事故だったと読者へ語る。しかし、事前に無害な男女が〈私〉のいる部屋へやってくることはわかっていた。にもかかわらず、なぜ、隠れなかったのであろう。仮にそれが間に合わなかったとしても、発見されてからすぐさま逃げることはできたはずである。粗暴な性格あるいは臆病な性格であればまだしも、〈私〉は死を覚悟してまで、「聖なるもの」をもとめて十字架が掲げられている会堂に赴くような、宗教的観念に取り憑かれている人物である。そんな人物が、とっさに撃つという選択をするものだろうか。それどころか、女の死を目の当たりにし、逃げた男にたいしては、わざわざ追いかけて執拗に発砲をくり返している。
 三つ目が、将校の屍体にまつわる〈私〉の挙動である。〈私〉はのっぴきならない飢えの欲求が高まり、また死に間際の将校から「俺が死んだら、ここを食べてもいいよ」といわれたこともあり、将校の屍体を食そうとする。しかし、いざナイフで切り取り、食べようとするときになって、それを阻止するように、意思に関係なく、左手が右手首を掴み、とめたというのだ。蛸の脚の付け根にある神経節が〈私〉にもあるというのならともかく、できすぎた話である。
 それぞれの不可解な行動は、作者の意図というよりも、「和」の要素と「洋」の要素とが対立し、激しくぶつかりあって生じてしまったほころびといえるだろう。ひとつ目は、農耕民族特有の定住精神とフロンティア精神の対立であり、ふたつ目はセロトニントランスポーター遺伝子量の少ない日本人の気質とキリスト教的宗教観念の対立、そして三つ目が人肉を薬と捉えてきた東洋人の思想と人肉を禁忌としてきた西洋人の思想の対立である。
 これらのほころびは些末なものでなく、やがて大きな裂け目をもたらす。
 それが、最終盤における〈私〉の記憶混濁である。これは、〈私〉に非はない。作者である大岡昇平に非がある。〈あの世〉から〈この世〉へ帰還するという、〈この世〉から〈あの世〉へ至るよりもなお非常に困難である偉業を、大岡昇平は〈私〉に果たすことをも課し、〈私〉はその通りに従い、帰還したにもかかわらず、肝心の大岡昇平自身はというと、その深遠にしてもっとも重要な帰還を記すまえに「和」と「洋」の均等を崩し、力尽きてしまっているのだ。その証拠に、〈私〉の記憶異常だけでなく、そこから物語も崩壊の相を帯びている。その崩壊の相を可視化させるために、あえて問いかけをしよう。
 なぜ、〈あの世〉の核にまで至り、瞬間的とはいえ、〈あの世〉に取りこまれてしまった者が、また平然と〈この世〉の尺度をもって、〈この世〉に瞬く間に復帰し、生活しているのか?
 本来であれば脱してはならない「黄泉戸喫」から、〈私〉は不自然に脱してしまった。その裏には、創作し操っていたはずの〈私〉に魅せられ、ぎゃくに〈私〉によって利用されて「黄泉戸喫」に囚われてしまった、大岡昇平自身の姿がある。