ツメノめ

本内容は「せいじん」を対象とし、一部過激な思想、表現を用いています。

サム・メンデス 監督『ロード・トゥ・パーディション』評Ⅰ

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* 超人という異常者

 
 昨今は、あからさまな超人が溢れかえっている世の中である。
 ちょっとスクリーンを覗いてみれば、あるいは紙面をのぞいてみれば、いとも簡単にその超人たちは姿を現わしてくれる。かれら、かのじょらは、空を飛ぶ者もあれば、眼から光線を出す者もおり、死なない者もいれば、動物の能力を備えている者もいる。これらの能力は序の口で、細分化された多くの能力が、特定の人物たちには付与され、地球を救うだの宇宙を救うだのと、大活躍している。
 かといって、眼に見えて「人を超えている」と直覚せずにはいられない人物たちばかりがスクリーンや紙面を支配しているわけではなく、人智を超えた精神の強靭さを武器に活躍する地味な者も、なかにはいる。その代表的な存在といえば、ロールシャッハであろうし、バットマンでもあろう。
 しかし、総じて、かれら、あるいはかのじょらは、完全な超人とはいえない。いびつな超人である。肉体的超人は精神面に欠陥(ナルシストである、オイディプスコンプレックスである、被害妄想である、自信過剰である、ガラスハートである、など)を抱えており、精神的超人は肉体面に欠陥(古傷がある、低身長である、怪我がある、無力である、装備に頼り切りである、など)を抱えている。
 だからこそというべきか、かれらあるいはかのじょらは、観客に愛される。欠陥がもととなって生じた悩みが人間らしく、観客はそこに自分と同一の存在であるという親しみやすさを覚えるからだ。
 では、スクリーンにおいて、または紙面において、絶えず〈見る側〉が存在することから、〈見る側〉に好意を抱いてもらうよう、つねに超人はいびつでなければならないのか。
 それを否定するかのように振舞うのが、『ロード・トゥ・パーディション』のマイケル・サリヴァンである。かれは、驚くべき人物といえる。無駄がなく、欠陥がない。善き夫であり、善き父であり、善き部下であり、善き復讐者なのだ。
 まず、かれは軽口を叩かない。如何様な場面でも紳士的態度を貫いており、寡黙である。ついで、頭が切れる。推理力に優れ、危機的状況でさえも慌てることはせず、瞬時に把握して冷静に切り抜ける。そして、戦闘能力が異常に高い。手強いはずのプロの殺し屋もほぼ無傷(逃走間際、肩に被弾してしまうが)で返り討ちにし、対複数ではひとりで正面から挑み、これまた無傷で皆殺しにしてしまう。性格もまるで非の打ちどころがない。全体的にやさしさがにじみ出ており、復讐するにあたっても部外者には迷惑をかけない、くわえてなるべく武力行使を避け、平和的解決をしようとする。そればかりか、ニーチェの超人思想にも、忠実ときている。
 かれは、完全な超人といっても過言ではない。これほどまでに超人と呼ぶにふさわしい人物はそうそういないはずである。しかし、注意しなければならないのは、とうぜんのことではあるが、善を行使する存在でもあるために、完全な超人たりえているわけではないということだ。マイケルの敵であるジョン・ルーニーの側に立ち、マイケルが悪を行使する存在として捉えなおし、観察することで、完全な超人としての姿がヨリ浮き彫りとなる

 真綿でしめあげられるようにゆるやかにこちらの勢いを削ぎ、さらに論理的に淡々と追い詰めてき、あげく味方する仲間たちとともに向かっていっても一方的にひとり残さず殺される。『ターミネーター』でサラ・コナーを追いかけ回すT-800は標的抹殺手前で破壊されてしまうが、マイケルは標的どころか、標的の仲間まで抹殺し、無事生還する。キラーマシーン以上にキラーマシーンである。もはや、機械すら超越する異常者のように感じられるが、これが、これこそがまさに、完全な超人たりえる所以ではなかろうか。善悪関係なく、また肉体欲求をも無視し、己の信念のみにしたがって、それを精確に遂行する術を肉体に有している。これは、肉体の機械化、精神の機械化を徹底し、高度な精密機械そのものになりきっていなければ不可能な所業ではないか。ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリも『アンチ・オイディプス』のなかで、人間の構造を分析するにあたり、〈機械〉ということばをよく多用していたが、もしかれらが生きていたなら、マイケルは格好の材料となっていたかもしれない。