ツメノめ

本内容は「せいじん」を対象とし、一部過激な思想、表現を用いています。

大岡昇平 著『野火』評Ⅱ

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* 危険なつなわたり

 
 異界の構造を大きく捉えるためには、主人公の〈私〉ばかりに焦点を当てるわけにはいかない。
 作者である大岡昇平の書き方と構成にいくらか目をやる必要があるだろう。
 作者を意識した場合、まず異様に映るのが、地理的情景描写である。延々と〈私〉がさまよいつづけるだけあって、これといった際立つ場面でもないところが過多気味に描写されていることもさることながら、熱帯雨林が生い茂る泥臭い地帯でありながら、どことなくそれを感じさせない詩的美しさもあるのだ。この詩的美しさが控えめに横溢する過剰な地理的情景描写に意味があるのかといえば、ないように思う。じっさい、あらすじを練るとしたら、それらの描写は無駄でしかなく、それらをいさぎよく切り捨て、思い出したように起こるほんのすこしの小粒な事件をつなぎ合わせるだけで、おおよその内容は語り尽くせてしまう。穿った見方をすれば、地理的情景描写は、小粒な事件をやたらに引き伸ばしているような印象があり、全体的に薄味というふうに感じられなくもない。同じく戦地を舞台とする小説を手がける有名な海外作家、アーネスト・ヘミングウェイとはまるで逆の書き方である。かといって、物語へ過多な地理的情景描写が悪影響を与えているのかといえば、そうでもない。荘子の『内篇』において、「無用の用」ということばがあるが、まさにそのような感じがあるのだ。『折口信夫文芸論集』の『詩・短歌・俳句』の項目にある稿において、折口信夫は、かつての短歌には意味のない雰囲気をあじわうだけのものが多くあり、その清涼感や侘しさが日本らしいと語っているが、『野火』も小説であるにもかかわらず、過多な地理的情景描写のおかげで、これに近しい日本らしさがある。つまり、意味のない過剰な地理的情景描写が「和」な雰囲気づくりに貢献しているのである。この雰囲気づくりは、永井荷風の『濹東綺譚』によく似ている。その場その瞬間の時空間を刹那的に愛で、表現する書き方なのだ。
 さて、この「和」な書き方が異界を顕現させているのだろうか。たしかに、局所的にはそうだろう。しかし、全体的ではない。これに「洋」の要素が編みこまれていくことで、異界ははじめて全篇にひろがりをみせ、完成の姿をあらわす。
 その「洋」の要素は何か。それは主人公である〈私〉の思想や行動だろう。〈私〉はどういうわけか、日本人でありながら、元来日本人のこころに宿っている神道の思想が失踪しており、そればかりか、これまた日本では馴染み深い仏教にも染まっておらず、専ら西洋から伝わったキリスト教に夢中なのである。『第七の封印』における騎士のアントニウスと張り合えるほどに、「聖なるもの」をひたむきに想い、〈私〉は戦乱のなか、「聖なるもの」を追い求める。もはや、受動的な禁欲や偶発的な試練も相まって、敬虔な信者以外の何者でもなく、彷徨が巡礼の旅じみているのだ。

 この「和」と「洋」が交互に織りこまれることで、独特の妖しさがたちのぼり、異界が全容をみせる。しかし、この独特の妖しさというのは『野火』だけがもっているものではなく、光線画を考案し、描いた小林清親の画にもある。いずれも共通しているのは、書き方(描き方)と構成(構図)がはっきりと分断していることである。この分断が混淆を許さず、「和」と「洋」がそれぞれ独立したまま、くっついているのだ。ゆえに、そこに脆さや危うさ、ほころびが生じ、妖しさがたちのぼってくる。
 これを和洋折衷とみるか、和洋分裂とみるか。
 どちらにも捉えられるような、ごく細い糸のような境界線を『野火』を創作した大岡昇平は歩んでいる。