夢の島=吸殻の山

本内容は「せいじん」を対象としています。

大岡昇平 著『野火』評Ⅰ

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* 異界の水先案内人

 
『野火』は日本文学のなかでは比較的有名な作品といえる。
 大岡昇平の代表作として知られているばかりか、高校の教科書にも一部が収録されている。
 本作は読んでみると、なるほど、戦争文学の雄といった趣がある。舞台は第二次世界大戦中のフィリピンであるし、登場してくる人物も兵隊ばかりである。また、全篇が戦禍にまみれている。しかし、その通りに捉えてしまっては何とも味気ない作品だ。
「戦争」を念頭に置いて読んでみると、正直、おもしろくない。華々しい戦闘など一切ないのだ。良くも悪くも血沸き肉躍るような場面はなく、逃避、敗走、彷徨と、ずっと下痢便のような展開と場面がつづいていく。
一見して、「戦争文学」に思えるが、『野火』にそれを期待するのは間違っている。『野火』は「戦争文学」という衣を巧妙にまとった「異界ものがたり」なのだ。ゆえに、読み方としては瞬発的な出来事を希求するのではなく、全篇にわたってにじみ出ている世界観に漂泊するのが正しい。独特の空気感、異質な空間が、『野火』のなによりの醍醐味なのである。
 そもそも、「異界ものがたり」は何をもってして「異界ものがたり」となりうるか。
 これにはいくつかの条件がある。大まかに区分けして、ひとつが異なる世界であること、つまり、いま我々が存在している現実世界ないしは〈この世〉の世界ではないこと、ふたつが異なる世界(〈あの世〉の世界)を明らかにしていくこと、そして三つが主人公は〈この世〉の尺度を保持していることである。
 これは多くの作品を鑑賞すれば、たやすく発見できる。相性がよいのか、わかりやすいところでいえば、やはりホラー系統の作品群によく見受けられる。文学作品であれば、『耳なし芳一』や『草迷宮』、『インスマウスの影』、『ウェンディゴ』、『丘の屋敷』などがあり、映画作品であれば、『犬鳴村』、『エクソシスト』、『死霊のえじき』など、ゲーム作品にまで手を広げるのならば『SIREN』や『LIMBO』、『サイレントヒル』あたりであろう。
 これらのホラー作品に優るとも劣らぬ異界が『野火』には広がっている。だが、舞台そのものが異界であるかと問われれば、そうではない。戦時下のフィリピンを異界たらしめているのは、まぎれもなく〈私〉の視点のせいである。本来は熱帯雨林がいたるところに生い茂り、むせかえるほどの湿気が立ちこめているだけの環境に過ぎない。それを〈私〉の眼が、亡者のような兵隊たちの助けもあって、この世ならざる原色の〈あの世〉へと化かせしめ、煉獄のような様相をもたらしているのである。すなわち、光景そのものが異界なのではなく、主人公の〈私〉の眼に映る光景こそが異界なのであり、また、物語自体が一人称で進んでいくために読者は舞台設定に騙され、「戦争物語」と錯覚したまま、心の内に奇妙な違和感を抱え、気づかぬうちにずるずるとその異界へと呑まれていくのだ。

〈私〉が異界をつくり出す。ということは、もちろん、〈私〉が極限状態へと追いこまれれば追いこまれるほど、いよいよもって、異界は異界然とし、物語は〈この世〉から遊離して、深刻な色香を放つ〈あの世〉へと近づいていく。注目しなければならないのは、〈私〉が置かれている環境はけっして非在の世界ではなく、実在の世界であるということだ。ホラー系統の作品群にあるような、あらかじめ用意された〈あの世〉らしい〈あの世〉なのではなく、〈この世〉であると同時に〈あの世〉なのだ。これは視点や見方を工夫すれば、〈この世〉が容易に〈あの世〉へと転化しうることを証明している。
 そういった意味で、『野火』は貴重な価値のある作品といえる。