夢の島=吸殻の山

本内容は「せいじん」を対象としています。

フランツ・カフカ 著『掟の前で』評Ⅱ

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* 老婆の眼

 
 タレースは今も昔も偉大な人物であることに間違いはない。
 かれは最古の哲学者である。そして、現代にも通ずる自然哲学を開拓し、数学の定理を発見した。
 ほかに、測量術にも長けていた、経済にも一石を投じたという話が残っている。
 とはいえ、かれは完璧に優れた人間だったわけではない。こんな逸話もある。
 あるとき、タレースは、天文に夢中となり、夜空を見上げ続けていたところ、足許の溝に気付かず、落ちてしまった。
 それをみていた老婆は笑い、「学者というのは星のことはわかっても、自分の足許はわからないのか」と言った――

 古今東西、老婆というのは侮れない。
 あるときは魔女、あるときは預言者、あるときはイタコ、あるときは呪術師として登場してくる。
 きっとタレースを笑った老婆というのも、これらの類だったのだろう。
 夜で視界が不明瞭であるにもかかわらず、かのじょには溝とそこへ落ちるタレースが見えていたのだ。
 見えていたばかりか、そこに落ちたタレースに対し、物事を正確に捉えるうえでの忠告を果たし、嘲笑いもしている。
 並の者ができる所業ではない。このときのタレースの顔はどのようなものだったのだろう。

 タレースの眼を用いて『掟の前で』を眺めることはたやすい。
 それによって、ある程度の分析と解釈が出来たともいえる。
 しかし、すべてではない。溝にはまってしまっている。
 ここで今度は老婆の眼でもって、『掟の前で』を眺めてみる必要がある。
 すると、解消し得ない番人への疑問が浮上してくる。
 なぜ、長い歳月を経て〈私〉は老衰するというのに、番人は老けもせず、平然と生きていたのか?
 なぜ、遊牧民の姿かたちをした者が番人をしているのか?
 そこで、〈掟(あるいは公的規則)〉と〈私〉と番人を再度つぶさに観察するのでなく、すこし離れた場所から全体を捉えなおせば、なんてことのない事柄が発見できる。
 番人なんて者はいないのだ。
 そこには〈掟(あるいは公的規則)〉と〈私〉しかない。そのふたつを隔ているのは、鏡である。
 この鏡が番人を形作っていたのである。つまり、番人の正体は、鏡に映る「モンゴル髭と大きな鉤鼻をもった〈私〉」、「遊牧民としての、異人としての〈私〉」だったのだ。だからこそ、番人は〈私〉がそこに留まりつづけるかぎり、その場にいたのであり、〈私〉の問いにたいして明確な答えをもたらさなかったのであり、また〈私〉が死ぬときになってようやくその場を去ったのである。
 そこに気付いてしまえば、物理的な壁(鏡)が防いでしまっているのだから、いくら頑張ってみたところで、はじめから〈掟(あるいは公的規則)〉へ侵入することは不可能だったことがわかる。くわえて、〈私〉が目指そうと試み、みていたものは〈掟(あるいは公的規則)〉でなかったということもわかる。
 〈私〉がみていたものは〈掟(あるいは公的規則)〉にみせかけた〈私的規則〉であり、その〈私的規則〉により、〈私〉はついぞ〈掟(あるいは公的規則)〉に侵入できず、死んでしまったのだ。
 物語の終わりでは番人は去り、門を閉じる。これは鏡に映った世界なのだから、〈私〉がとうとう〈掟(あるいは公的規則)〉に入ることをあきらめ、〈私的規則〉のなかへふたたび帰り、社会を拒絶してしまったとも捉えられる。不条理でもなんでもない。そこには、自らが自らを遮り、社会にうまく馴染めなかった姿があるだけだ。
 カフカはこのことに気づいているのだろうか?